広開土王/好太王
4世紀末~5世紀初め、古代朝鮮の高句麗全盛期の王。南下して百済・倭と戦い、領土を広げた。その業績を称えた広開土王碑文が残されている。
朝鮮の三国時代、高句麗の全盛期の王(在位391~412年)。故国譲王の子で、391年に18歳で第19代の王となる。王名は年号から永楽王とも言うが、後に広大な領土を広げた王という意味の美称として広開土王、あるいは好太王と言われた。
広開土王はまた、平壌(次の長寿王の時に都となる)に9つの寺院を建て仏教を保護している。412年に死去、その墓は国内城の近く、広開土王碑に近い太王墓とも、やゝ離れた将軍塚とも言われており、まだ判っていない。
広開土王の領土拡張
広開土王は盛んに周辺に軍事行動を起こしたが、「広開土王碑文」によると、特に南進に力を入れ、396年以来、たびたび朝鮮南部に進出し、百済および、朝鮮南部に進出していた倭と戦った。404年には海上で北上した倭を破っている。南進だけでなく、395年には中国の五胡十六国の一つ燕とも戦い、410年には北方の東扶余を討って領土を広げた。好太王碑文の末尾では、在位22年間に64城1400村を獲得した讃えられている。広開土王はまた、平壌(次の長寿王の時に都となる)に9つの寺院を建て仏教を保護している。412年に死去、その墓は国内城の近く、広開土王碑に近い太王墓とも、やゝ離れた将軍塚とも言われており、まだ判っていない。
広開土王碑
広開土王が周囲に出兵し、高句麗の領土を拡張した功績を称えた碑が、丸都城跡(現在の中国の吉林省集安市通溝付近)に次の長寿王によって414年に建てられている。その碑文は「広開土王碑(好太王碑)」といわれ、古代において倭(日本)が朝鮮半島に進出し、広開土王の高句麗と戦ったことを示す内容が含まれているため、日本で注目されている。この碑文については、1884年に発見されてから日本陸軍が改ざんしたのではないか、という疑いももたれた。現在では、改ざん事実は否定され、碑文の文字についてはほぼ確定し、倭の朝鮮半島南部への進出と、広開土王が倭軍を破ったことは事実として考えられている。また、4世紀末から5世紀末の日本を含む東アジアの国際関係を知る上で、重要な史料となっている。参考 広開土王の名前
日本史でも「高句麗広開土王碑文」が必ず取り上げられており、「好太王」と言われることが多いが、これは美称に過ぎない。死後につけられた「国岡上広開土境平安好太王」という長い名が正式名であろうが、略称としては「広開土王」とするのがよさそうだ。(引用)王の幼名は「談徳」、即位してから「永楽太王」、死後に「国岡上(こくこうじょう)/広開土境(こうかいどきょう)」/平安/好太王」の名があった。「永楽」は王代の年号にもなり、また「国岡上」は王の陵墓の所在地、「広開土境」は王の功績のエッセンス、「平安」は王生前の対外用の名前、「好」「太」とも「王」の美称である。従って、「広開土王」や「好太王」は死後のものであり、とくにただ「好太王」というならば、それは内容のない美称だけの略称になってしまう。ふつうは、正史『三国史記』の「広開土王」を使うほうがよい。<武田幸男他『世界の歴史6』隋唐帝国と古代朝鮮 1997 中央公論社 p.307>