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倭人・倭国

中国の歴史書に現れた日本人および日本国家の初期形態。7世紀に日本という称号に代わる。

 倭、または倭人は中国の歴史書に現れる日本のこと。前1世紀の『漢書』地理誌の記事に続き、『後漢書』東夷伝倭人条に、57年、倭の奴国王が光武帝に使いを送って朝貢し、印綬を授けられたという記事がある。この奴国は北九州にあった国の一つであろうとされ、そのときの印綬が、志賀島で発見された「金印」であろうと考えられている。当時、弥生時代の中期にあたり、小国家の統合が進んでおり、その中の有力な国の一つが奴国であったものとされている。

Episode 「金印」の発見

 金印は江戸時代の天明4(1748)年、福岡市の博多湾にある志賀島で発見された。発見したのは農民で、田んぼの水路の工事中に見つけ、当時の福岡藩の役人に届けられた。印の本体は金(重さ約108g、金の含有量95%)で造られ、紐をとおす部分は蛇の形をしており、印面は「漢委奴国王」の五文字が陰刻されていた。藩の儒者亀井南冥が鑑定し、『後漢書』東夷伝にある光武帝が「漢奴国王」に贈った金印であろうと結論づけた。「委」の字を「倭」の省略形であろうと考え「漢の倭の奴国の王」と解釈したのだった。そのまま藩主黒田家が所蔵し、昭和6年には国宝に指定された。昭和53(1978)年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館で公開されている。<福岡市博物館ホームページによる>
 このように偶然に発見された金印については、現在も偽造説が根強い。また、委奴国をそのまま「イト国」と訓むべきだとして魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の王だ、とする説もある。しかし、印綬の形式は、漢王朝が周辺諸国の王に与えたものと一致しており、いわゆる冊封体制の一環と理解されており、現在も国宝に指定されたままなので、現在も教科書でも光武帝が委奴国王に贈ったという「金印」であるとしている。

邪馬台国から倭の五王へ

 また、107年の安帝の時には、倭国王帥升が、生口(奴隷か)160人などを朝貢している(同じく『後漢書』)。また2世紀の後半の桓帝・霊帝のころには「倭国大乱」となったと『後漢書』は伝えているが、その実態はわかっていない。次の3世紀の三国時代に邪馬台国の女王卑弥呼が登場し、三国時代の魏との関係をもつこととなる。4世紀には倭国は朝鮮半島に出兵して、高句麗と戦うなど、半島南部に権益を獲得していた。5世紀の倭国は中国の史書『宋書』などで知られる「倭の五王」の時代は考古学上の古墳時代にあたり、大和政権の統一が進んだ。

倭国から日本へ

 豪族連合政権であった大和政権は、朝鮮半島での新羅の台頭などの国際的変動や、仏教の伝来などの新しい文化の浸透などの変化の中で次第に動揺を強め、中国大陸における隋唐という統一国家の登場にも刺激されながら、中央集権的な統一国家の形成を進め、7世紀の大化の改新を経て天皇権力を樹立し、国際的な国号も倭国から日本へと転換させていく。