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大興城

中国の隋王朝を開いた楊堅(文帝)が、漢以来の長安の近郊に建造した都城。現在の西安。

 文帝(楊堅)長安に大興城を建設し首都とした。周の鎬京、秦の 咸陽もその付近にあった。漢の高祖が長安を首都として以来、晋、西魏、北周の都として続いたが、隋ではその近くに新たに都城を建設した。それが大興城である。

隋の文帝が建設

 北周に代わって隋を建国した文帝は、北周が使用していた長安城が建物の老朽化、汚水の処理や飲料水の確保にも問題があったので、ただちに鮮卑系の宇文愷(うぶんかい)に命じて新首都の建設を開始した。宇文愷は旧都のやゝ東南の龍首原という台地を選び、ここに東西10km弱、南北9km弱の外城壁をもつ巨大な方形都市を創案した。これが唐朝に引き継がれた長安城である。

大興城への運河開削

 さらに文帝はこの新首都を江南の地とつなげ、飢饉に備えた食糧の輸送路とともに軍隊の迅速な移動、補給のために人口伽洞の開削を、同じく宇文愷に命じた。宇文愷は西の渭水から水を大興城に引き込み、それを渭水に沿って東に流し、潼関を抜けて黄河の流れが屈曲する風陵渡まで通じる広通渠を開削した。さらに南では長江沿いの揚州から北の淮河に通じる邗溝(かんこう)を開いた。これが煬帝大運河建設の先駆となる。 それを継承した唐の都長安は、国際都市として繁栄した。現在の西安市がそれにあたる。なお、煬帝は長安を西京とし、東方の洛陽にさらに東京(とうけい)を建設したが、その土木工事で農民に過剰な労役を負担させ、反発を強めた。
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