隋
581年、北朝の北周の外戚楊堅(文帝)が建国、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。律令制による中央集権体制を作り上げたが、次の煬帝の土木工事や外征の強行に対する不満から民衆の反乱が起き、618年に滅亡し、唐王朝に代わった。
581年に北朝・北周の外戚であった楊堅が文帝として即位し、建国した王朝。589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一した。これにより、後漢の滅亡以来、約370年続いた魏晋南北朝の分裂時代を終わらせ、隋とそれに続く唐の統一時代を出現させた。都は長安の東南に建設した大興城であった。
隋は北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などを継承して律令制を整備し、さらに587年には科挙を創始し、州県制などの中央集権体制をつくりあげた。隋は文帝に次いで皇帝となった子の煬帝(ようだい)が大規模な土木工事や高句麗遠征を強行したため民衆の反発を受けて各地に反乱が起き、武将であった李淵が挙兵して実質的に二代、わずか37年で滅んだが、その国家体制は唐に継承された。
中国において統一国家が復活したことはアジア全域にも大きな影響をあたえ、隋に圧迫された北方の遊牧帝国の突厥は東西に分裂した。朝鮮半島では三国時代が次第に統合に向かい、まず高句麗が強大となって隋の侵入を撃退した。日本列島でも国家形成が進み、聖徳太子が遣隋使を派遣して隋の煬帝に対等な外交を要求した。隋帝国は2代で崩壊したが、その世界帝国としての機能は次の唐帝国で完成した。
隋帝国が中国を統一支配した6世紀末から7世紀初めは、ヨーロッパではフランク王国などのゲルマン諸国の形成の時代であり、世界史的な大きな変動として西アジアのアラビア半島にムハンマドが登場し、イスラーム教が創始されことがあげられる。
有力な反乱軍の一つであった李淵とその子李世民の軍団は617年7月に長安目指して進撃を開始し、11月に長安を占領した。煬帝は長安陥落の報に追いつめられ毒を仰ごうとしたが、部下の宇文化及はそれを許さず煬帝を絞殺した(618年3月)。長安、洛陽、江都で煬帝の子や縁者がそれぞれ擁立されたが、いずれも永続きしなかった。618年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲された形をとり皇帝(高祖)となって唐を建国したが、翌年5月に15歳の前皇帝恭帝を殺害し、これで完全に隋は滅亡した。
隋は北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などを継承して律令制を整備し、さらに587年には科挙を創始し、州県制などの中央集権体制をつくりあげた。隋は文帝に次いで皇帝となった子の煬帝(ようだい)が大規模な土木工事や高句麗遠征を強行したため民衆の反発を受けて各地に反乱が起き、武将であった李淵が挙兵して実質的に二代、わずか37年で滅んだが、その国家体制は唐に継承された。
中国において統一国家が復活したことはアジア全域にも大きな影響をあたえ、隋に圧迫された北方の遊牧帝国の突厥は東西に分裂した。朝鮮半島では三国時代が次第に統合に向かい、まず高句麗が強大となって隋の侵入を撃退した。日本列島でも国家形成が進み、聖徳太子が遣隋使を派遣して隋の煬帝に対等な外交を要求した。隋帝国は2代で崩壊したが、その世界帝国としての機能は次の唐帝国で完成した。
隋帝国が中国を統一支配した6世紀末から7世紀初めは、ヨーロッパではフランク王国などのゲルマン諸国の形成の時代であり、世界史的な大きな変動として西アジアのアラビア半島にムハンマドが登場し、イスラーム教が創始されことがあげられる。
煬帝の政治
第二代の煬帝(ようだい、ようてい)は大運河の建設を行い、中国の経済的統一の基盤を作ったが、一方で副都の洛陽の建設など土木工事に農民を徴発し、その生活を困窮させた。さらに612年に始まり、3度に及んだ高句麗遠征を行ったが、その遠征中に内乱が勃発して中止となった。隋の滅亡
煬帝が2度目の高句麗遠征に出た613年に、臣下の楊玄感が反乱を起こした。煬帝は急ぎ兵を返して、反乱軍を鎮圧したが、各地で兵乱があいつぐようになった。都の長安と東都の洛陽も反乱軍に脅かされ、煬帝は大運河で結ばれた南方の揚州(江都)に逃れた。有力な反乱軍の一つであった李淵とその子李世民の軍団は617年7月に長安目指して進撃を開始し、11月に長安を占領した。煬帝は長安陥落の報に追いつめられ毒を仰ごうとしたが、部下の宇文化及はそれを許さず煬帝を絞殺した(618年3月)。長安、洛陽、江都で煬帝の子や縁者がそれぞれ擁立されたが、いずれも永続きしなかった。618年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲された形をとり皇帝(高祖)となって唐を建国したが、翌年5月に15歳の前皇帝恭帝を殺害し、これで完全に隋は滅亡した。
Episode 「随」は間違い?
世界史のテストで「隋」を「随」と書いたら間違いなく×にされる。基本的な間違い、と笑われてしまうだろう。しかし実は、「随」というのもまったく間違いとは言えない。楊堅の父の楊忠は北周の皇帝から「随国公」に封じられ、楊堅もそれを継承したのだが、北周に代わって皇帝となったとき、随の字のシンニョウを無くして「隋」に改めた。シンニョウは「走」の字と同義で国運が逃げ去ることを避けたためと言われている。ところが、現存する当時の金石文には「隋」と「随」の両方とも使われていることが明らかになった。シンニョウをきらって隋に改めたというのは正しくなく、当時はどちらでもよかったようだ。漢字は本来、字体の違いにあまり頓着しなかったのだ。トメとかハネまでこだわるのは日本の学校教育だけのことらしい。かといって現在では、残念ながらやはり「随」と書くと誤りとされてしまうので気をつけよう。