印刷 | 通常画面に戻る |

洛陽

東周の洛邑から発展し後漢の都となった。その後も三国時代の魏、西晋、北魏でも都とされ、隋・唐では副都とされる。郊外には北魏~唐に造営された竜門石窟寺院がある。

洛陽 GoogleMap

かつて東周時代に都となった洛邑。黄河中流の支流である洛河の北岸にあったので、洛陽(陰陽思想では川の北側が陽にあたる)と言われるようになった。関中(渭水地方)の咸陽や長安に対し、東都と言われ、中原を抑える要衝であった。はじめ、の周公旦が王城を築き、平王の時以来東周の都となった。

後漢・魏・西晋の都

 後漢の光武帝25年、周の王城とは別に新たに洛陽城を築き、首都とした。その後、三国時代の(220~265年)は洛陽を首都として継承した。魏は東アジアとの国際関係を結び、当時の日本列島の一つであった邪馬台国の女王卑弥呼に対し239年に「親魏倭王」の印綬と銅鏡100枚を賜ったことが『魏志倭人伝』に記されている。そのとき、邪馬台国からの使節はこの洛陽に至った可能性がある。
 さらに洛陽は、魏を継承した西晋の都となった。こうして洛陽は、古代中国における歴代王朝の都として栄え、漢民族にとって漢文化の中心地としても意識された。

永嘉の乱で落城

 洛陽の歴史で大きな転換点となったのは、西晋の政争である八王の乱以来、華北に進出を開始した五胡といわれた北方民族の勢力が伸び、その中のひとつの匈奴を率いた劉聡が、311年に洛陽に侵入、破壊と殺戮を行った永嘉の乱であった。これが五胡十六国時代の幕開けとなって、洛陽は匈奴が建てた前趙の軍によって占領されることになった。その後、南の健康に逃れた東晋は、洛陽の回復を掲げ、たびたび北伐の軍を起こし、一時は奪還に成功したこともあったが、長く維持することはできなかった。

北魏の洛陽遷都

 華北を統一した北朝の北魏は始め北方の平城(現在の大同)を都としたが、漢化政策を進めた孝文帝は多くの胡族の保守派の反対を押し切り、494年に洛陽に遷都した。中国全土の統一を視野に入れた孝文帝は、中華世界全域を支配するには平城は北にあってふさわしくないので、中原の洛陽を都としなければならないと考えたのだった。孝文帝以降の北魏の皇帝は洛陽の都城の修復に努めるとともに、孝文帝が平城の郊外の雲崗に倣って洛陽の郊外の竜門に石窟寺院を造営を開始した。北魏の洛陽遷都は北方の胡族の文化や制度と漢民族の文明とが融合していく重要なステップとなった。
 しかし、洛陽遷都が強行されたことは胡漢二重体制の矛盾を引きずっていた北魏にとって、深刻な内部対立を引きおこすこととなり、やがて東魏西魏に分裂、洛陽は東魏の都として引き継がれたが、長安を都とした西魏との抗争が激しくなる中で東方の鄴(ぎょう)に遷都したため、洛陽は荒廃することとなった。
『洛陽伽藍記』  北魏孝文帝は洛陽遷都から5年後の499年、南朝討伐の軍中で病を得て没する。その後を継いだ宣武帝は501年、5万余の人力を徴発して首都洛陽城の大修築を行った。この都城は東西20里、南北15里に及ぶ壮麗なもので、三百余の条坊からなり、そのうちには1367の伽藍(仏教寺院建築)がひしめいていたという。『洛陽伽藍記』によれば、当時の北魏はパミールから東ローマ帝国(大秦)にいたる百国千城のうち、一つとして付き従わぬものないほど強大な国家であり、胡人の隊商や行商人たちは毎日のように国境を目指してひしめき、北魏を慕って住み着くものものも数えきれず、という状況であったという。
 洛陽には、帰化した外国人が1万戸以上を数え、街並みは整然と区画され、家々の表門はびっしりと連なり、青い槐(えんじゅ)の樹は街路に影を落とし、天下の得がたい物資のすべてが集まった。洛陽の繁栄を象徴するのは、宣武帝の皇后の霊太后の創建した永寧寺であった。西域からやってきた仏僧の菩提達磨は永寧寺の伽藍を見て、讃文を唱え、幾日も合掌を続けたという。<川本芳昭『中華の崩壊と拡大-魏晋南北朝』中国の歴史5 2005 講談社 2023再刊 講談社学術文庫 p.273>
 『洛陽伽藍記』は6世紀中頃、東魏の楊衒之が書いた記録。当時は、東魏が都を洛陽からさらに東方の鄴に移した後で、洛陽は荒廃していた。その様子を見て、北魏の都だった時代を懐かしんで執筆された。都市の情報だけでなく、各寺院にまつわる伝説や奇談、庶民の生活ぶりまで描かれており、北魏の都洛陽へタイムスリップを誘う書物になっている。<松下憲一『中華を生んだ遊牧民-鮮卑拓跋の歴史』2023 講談社選書メチエ p.168>

隋唐の東都として繁栄

 また、隋の煬帝は、首都長安を西京、この洛陽に東京(とうけい)を築いた。また煬帝はこの地を基点に北に大運河の一つの永済渠を建設し、現在の北京方面や、高句麗への進出の拠点とした。唐時代も西の首都長安に対して東都とされた。さらに則天武后は唐の実権を握り、国号を(武周)に変更すると共に、都を洛陽に移し神都と改称した。
 洛陽は唐の時代まで、長安と並ぶ政治・経済・文化の中心地であったが、五代のはじめに都が東の汴州に移され、その地が宋代に開封として発展し、次に元の時代になると、大都といわれた北京が中国の政治の中心になったため、かつての繁栄は終わった。しかし、現在も河南省の主要都市として存続し、歴史的な都市・郊外の竜門石窟寺院遺跡などの文化遺産が豊富で、世界遺産に登録されている。

参考 洛中、洛外、上洛とは

 日本では京都市内を洛中といい、その外を洛外、京都に行くことを上洛と言っていた。今も、洛北・洛南などとも言われる。それは、平安時代に、唐の複都制(長安と洛陽を双方を都とした)になぞらえて平安京の右京(西側)を長安城、左京(東側)を洛陽城と呼んだことに始まる。平安京の右京は次第に衰え、左京だったところが京都の市街地となったため、京都のことを洛陽になぞらえ、洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。つまり、京都の「洛」は洛陽の「洛」から来ている。

用語リストへ 2章3節3章2節

 ◀Prev  Next▶