租調庸制/租庸調制
隋唐の律令制下の均田制をもとにした租税制度。口分田を班給を受けたものに対し、およそ租は穀物、調は布、麻などの現物納、庸は年20日の中央での労役(または絹などの代納の絹、布など)が課せられる。その他、雑徭、兵役が農民の負担とされる。
律令の賦役令に定められている税制で、均田制の下で給田された丁男(唐では21歳~59歳の男性。後に25歳~54歳とされた。)に対して賦課される租税の総称である。殷周以来、さまざまな税目が存在したが、漢代の租、三国時代の魏以来の調などを整備したもので、労役の変わりに現物を納めるという庸は西魏に見られた。北魏時代には租と調が夫婦単位で課税され、他に奴婢、耕牛にも賦課された。隋で租調庸に整備され、煬帝の時には婦人への課税は廃止された。
注意 最近まで日本史においても「租庸調」というのが一般的であったが、現在は日本史・世界史の各社教科書で「租調庸」と言われるようになった。ただ一部教科書ではまだ旧来のままのものあるので、「租庸調」として誤りとはされない。大事な点は、従来の「租庸調」だと、律令制度下の税制がこの三種だけだったと誤解しやすいことで、実はそれ意外に「雑徭」という労役があり、この四つが農民の重い負担となっていたという事実である。この四つを並べたとき、租と調は現物納、庸は労役かその代納の現物、雑徭は労役なので、「租・調・庸・雑徭」と言った方が収まりがいい、ということであろう。租 、調 、庸 の内容、および雑徭 が律令の規定として確定した。
租 そ。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、粟(アワ。ただし穀物を意味する。)2石(1石は約60kg)。日本の律令制の班田収授法では男子に2束2把。女子にその3分の2。
調 ちょう。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、絹2丈綿(まわた)3両、または布2.5丈、麻3斤。1丈は10尺、幅56cm、長さ約3m。1斤=16両=約688g。日本の律令制の班田収授法ではその地の特産物とされた。
庸 よう。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、年に20日間の中央政府での労役(これを正役という)の代わりに、1日あたり絹3尺と布(麻布)3.75尺で換算した代償を納める。
雑徭などの労役 租調庸のうち、租と調は生産物(現物)で納付する「現物納(現物地代)」であったが、雑徭などの労役(無償の労働提供)で負担する税もあった。それらを役(えき。徭役とも言う)といい、正役(通常は庸で代納する)と雑徭があった。特に雑徭は農民にとって大きな負担となっていた。府兵制のもとでの兵役もあった。これらはいわば国家に対する「労働地代」にあたるものであり、このような現物納と労役の二本立ての税制であった点が、近代以降と大きく異なる点である。
6世紀以来、中国の文化や政治制度の受容に努めた日本は、大化の改新を機に天皇制中央集権体制の確立に向かい、律令制度を採用した。その中の基本的な制度である土地・税制では、均田制を模して班田収授法をつくり、その上で内容を多少変えた租・調・庸・雑徭を柱とした制度が実施された。
注意 最近まで日本史においても「租庸調」というのが一般的であったが、現在は日本史・世界史の各社教科書で「租調庸」と言われるようになった。ただ一部教科書ではまだ旧来のままのものあるので、「租庸調」として誤りとはされない。大事な点は、従来の「租庸調」だと、律令制度下の税制がこの三種だけだったと誤解しやすいことで、実はそれ意外に「雑徭」という労役があり、この四つが農民の重い負担となっていたという事実である。この四つを並べたとき、租と調は現物納、庸は労役かその代納の現物、雑徭は労役なので、「租・調・庸・雑徭」と言った方が収まりがいい、ということであろう。
唐の租調庸とその他の負担
唐の時代にそれぞれ、租 そ。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、粟(アワ。ただし穀物を意味する。)2石(1石は約60kg)。日本の律令制の班田収授法では男子に2束2把。女子にその3分の2。
調 ちょう。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、絹2丈綿(まわた)3両、または布2.5丈、麻3斤。1丈は10尺、幅56cm、長さ約3m。1斤=16両=約688g。日本の律令制の班田収授法ではその地の特産物とされた。
庸 よう。租庸調制における税目の一つで、口分田を班給される丁男(成年男子)に対して、年に20日間の中央政府での労役(これを正役という)の代わりに、1日あたり絹3尺と布(麻布)3.75尺で換算した代償を納める。
雑徭などの労役 租調庸のうち、租と調は生産物(現物)で納付する「現物納(現物地代)」であったが、雑徭などの労役(無償の労働提供)で負担する税もあった。それらを役(えき。徭役とも言う)といい、正役(通常は庸で代納する)と雑徭があった。特に雑徭は農民にとって大きな負担となっていた。府兵制のもとでの兵役もあった。これらはいわば国家に対する「労働地代」にあたるものであり、このような現物納と労役の二本立ての税制であった点が、近代以降と大きく異なる点である。
租調庸制と農民
租調庸は均質な均田農民の家族労働に基盤を置き、その生産物を国家が直接収奪するという仕組みであり、そのために土地台帳である戸籍と、租税台帳である計帳が作成された。従って農民を戸籍と計帳に登録して掌握することで成り立ので、偽籍(戸籍を偽ること)や浮浪・逃亡(戸籍を離れること)は許されなかった。しかし、8世紀後半になると農民の中には重い負担を嫌って浮浪・逃亡するものも現れ、次第に戸籍と計帳が実態に合わなくなってきた。このような均田制の崩壊に伴って租調庸制も実態を失い、780年には両税法に変更される。6世紀以来、中国の文化や政治制度の受容に努めた日本は、大化の改新を機に天皇制中央集権体制の確立に向かい、律令制度を採用した。その中の基本的な制度である土地・税制では、均田制を模して班田収授法をつくり、その上で内容を多少変えた租・調・庸・雑徭を柱とした制度が実施された。