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両税法

780年、唐で租庸調制に代わって始まった税制。農民の土地私有を認め、現住地で土地の面積・生産力に応じて課税する。一部を銭納として夏と秋の二回徴収した。明代の一条鞭法まで続く基本的な税制となる。

 780年の宰相楊炎が皇帝の徳宗に建言して成立した、租庸調制に代わる唐の中期以降の税制。土地公有の原則が崩れ、均田制(唐)の行き詰まりって均質な均田農民の中に貧富の差のが拡大して階層分化が進んだこと、節度使(藩鎮)が地方で自立して中央の税収入が減少したことなどで財政が苦しくなったため、新たな税制に切り替えることで税収の回復をはかる必要があった。

両税法の施行

 時の宰相楊炎は、租庸調制を破棄し、戸税・地税など様々な税を整理し、新たな税徴収体系として、次のような「両税法」を上申し、780年にそれが採用されて実施されることになった。
  1. 主戸(土地所有者)・客戸(小作人)の別なく、現住地で課税する。
  2. 資産額に応じて(丁男数を加味し)戸等を決め、戸税(貨幣納※)を徴収する。
  3. 別に耕地面積に応じて地税(穀物の現物納)を徴収。
  4. 戸税と地税は、6月と11月の2期に分納(二期作、二毛作の普及に対応)。
  5. 租庸調雑徭など従来の税目は廃止するが労役(無償労働)は残る。
ねらいは、当時本籍を離れて脱税を図っていた有産者にも課税しようとしたことにある。他に商人にも課税された。また、税額は年度毎に予算を立て、それに応じて課税額が決められた。 ※両税法で一部が銭納(貨幣納)となったも画期的で、一定の貨幣経済の成長に対応して貨幣を税として納めさせようとしたものであった。しかし、農民から一律に貨幣で税を納めさせるには時期尚早でたったため、貨幣納は次第に生産物納に置きかえられていった。宋代の両税は土地に賦課される生産物地代(地税)となった。

両税法の意義

 この両税法によって、荘園などの大土地所有を含む土地私有が認められ、同時に商業も公認されて課税対象とされることとなり、税制の大きな変わり目となった。両税法が施行されたことによって大土地所有者と小作農という唐中期から始まった農民層の分解がさらに進行した。宋代以降は佃戸と言われるようになる。
 両税法は、中国の税制史上、画期的なものであったが、要点は資産に応じて戸ごとに課税し、銭納を基本としたことである。しかし間違えてはならないことは、農民の労役は無くなっていないことである。労役が銀納になるのは一条鞭法からであり、労役の銀納(丁銀)が無くなるのは地税に組み込まれた地丁銀によってである。

両税法施行の背景

 両税法という新税制への移行の背景には、次のような農業の変化と商業の発達があった。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.327-334>
麦の生産の普及 中国の農業の基本は、華北での畑作による粟の栽培、華南での水田による稲作が基本であったが、唐の中期までには華北の作物は麦が粟を上まわるようになった。それは、五胡十六国頃から遊牧民が華北に定住するようになったため、粉食(小麦から麺を作って食べる)が一般化したからであった。また粉食のためには製粉する必要から水車を利用する碾磑(粉ひき)が普及した。また麦は冬蒔いて夏収穫するので、夏税として徴収できるようになった。また華南の稲作も唐中期頃から直まきから苗代式に変化し、収穫量が増加した。
商業の進化 律令制下の商業は県城以上の都市に設けられた「」に限られ、夜間営業が禁止されるなど制約が多かった(市制)。しかし、唐中期までに農業生産力の向上によって商品流通量が増大し、場所・時間が限定された「市」での取引以外にも自然発生的に生まれていった。そのような都市の公認の「市」以外に生まれた商業地域を「草市」というようになった。また「市」の中にあった同業店舗の集まっている区域を意味していた「」は、次第に同業商人組合を意味するようになった。8世紀にはこのような商人にも課税されるされることが始まっていた。

中国のその後の税制

 両税法はその後、土地税としての性格が強くなるが人頭税の要素も残り、宋代には貨幣納はなくなり現物納となるとともに雑多な雑税も加えられるようになる。両税法は基本的には約800年間続き、16世紀の明の一条鞭法の採用によって銀納に一本化され、清朝での地丁銀によって労役の銀納(丁銀)が廃止されて地税に一本化される。
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書籍案内

布目潮渢・栗原益男
『隋唐帝国』
初刊1974
再刊1997 講談社学術文庫