律令/律令制度
中国の隋から唐の時代に完成、整備された法律体系。周辺諸国にも大きな影響を与えた。
律令は「りつりょう」と読まれることが多いが、「りつれい」でよい。まず刑法である律の制定が戦国時代の秦の商鞅の改革に始まり、中国を統一した秦の始皇帝が法家の李斯を登用して法治国家の理念を具体化した。漢帝国でも基本的には継承され、律に続いて国家行政の規則である令もつくられるようになった。
三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。8世紀前半の玄宗の時が最も整った時期のものとされている。この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6~7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。さらに後代の明では、明律と明令が制定された。
律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。
令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
格 格(キャク)は臨時法としてだされて定着した追加法にあたる。
式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。
三国時代の魏や、南北朝時代の北魏などの北朝で発達し、統一を回復した隋において、律令という形で定着した。次の唐では律令・格式の法体系が出来上がり、政治機構から社会経済、刑罰に至る法体系によって国家が運用される律令国家が出現した。8世紀前半の玄宗の時が最も整った時期のものとされている。この法体系は日本を始め、新羅、渤海など6~7世紀に国家機構を整備した東アジアの周辺諸国にも採用され、後世に至るまで大きな規制力を持つこととなった。さらに後代の明では、明律と明令が制定された。
隋の律令制度
隋の文帝は皇帝となった581年に、さっそく律令を制定した。これを開皇律令という。これそのものは残っていないが、唐の律令もこれをもとにして作られたと言われている。律とは刑罰規定であり、隋の開皇律令の律は国家体制の維持を目的とし、戸籍や婚姻などの規定を含んでいたらしい。また令は行政規定で、後の唐の三省六部制、科挙による官吏登用制のほか、均田制や租庸調制、府兵制など唐の律令のもとになる内容をすでに持っていたと推定されている。また、地方官制も漢の州・郡・県の三段階を改め、郡を廃止して州県制にした。これらはいずれも次の唐に継承される。
唐の律令制度
唐を建国した李淵(高祖)は隋に続いて624年に武徳律令を制定した。その後、唐王朝で律令・格式という法体系に基づいた国家の諸制度が整備され、三省六部制の国家機構、科挙による官吏登用・官僚制、均田制の土地制度、租庸調制の税制、府兵制の軍事制度など政治上の規定とともに、法律による刑罰制度、身分制度や家族制度、社会規範などに及ぶ広範な法治国家体制が出来上がった。このような体系全体を律令制度と言い、それによって維持展開される国家を律令国家という。武韋の禍を克服した8世紀前半の玄宗の時の開元の治のころに制定された律令が最も整備されたものとされている。ただし、律令の原文は早くから散逸し、そのままでは残っていない。律は『唐律疏義』という解説書が残され、令は日本の仁井田陞博士が逸文を編纂した『唐令拾遺』で復元されている。参考 日本の律令制度
新羅・渤海・日本などの周辺諸国にも律令制度は取り入れられ、広く東アジアで展開された。特に日本では奈良時代に「律令国家体制」と言われるような官僚制・文書管理国家が生まれた。大化改新後の天智天皇による近江令、壬申の乱後の持統天皇による飛鳥浄御原律令を経て、藤原不比等らによる大宝律令が701年に完成、さらに養老律令で改訂された。律令・格式の体系
律 律は一般に刑法にあたる。令 令(リョウ、またはレイ)は行政法にあたる。
格 格(キャク)は臨時法としてだされて定着した追加法にあたる。
式 式は施行細則にあたる。格とあわせて「格式」といい、唐時代に何度かまとめられている。