柳宗元
唐代の詩人、文章家。韓愈と共に古文復興に努める。高級官僚の地位から失脚して地方に赴任、自然を描く中に悲哀を越えた詩文を残した。
りゅうそうげん。773~819 唐詩を代表する詩人であり、文章家。中唐の人で韓愈とともに、四六駢儷体の技巧を排し、質実な漢・魏の古文を復興させる運動(古文復興運動)の中心人物のひとりとなった。やはり科挙の合格者で官吏となった人だが、中央での改革運動に加わり、にらまれて南方の広西省に左遷され、官吏としては地方官に終わった。生涯に事前を呼んだ多数の山水詩を作り、唐宋八大家の一人に加えられた。
ところが805年、老齢の徳宗が死去した時、皇太子が立って順宗となったが、順宗は風疾(脳出血)で倒れており、口もきけない状態だった。順宗の即位を強引に進めたのは王叔文ら改革派の官僚で、一挙に改革を進めようとした。それに抵抗したのが宦官勢力であり、軍隊の支配権を握って改革派官僚に反撃、半年後に順宗の子の憲宗を擁立することに成功した。年号が永貞と改められると共に王叔文のグループは政権から一掃された。これが「永貞の変」と呼ばれる政変で、王叔文はいったん地方官に左遷された後、死刑に処せられた。柳宗元もことの時位を落とされて結局、湖南省の永州の司馬(地方官の一つ)に左遷された。柳宗元はそれから十年間、エリートから一転して地方の生活へと言う失意を味わうこととなったが、その屈折した心境を慰めたのが永州の美しい自然だった。自由な時間を得た永州で、彼は山川をわたりあるき、事前の美しさに開眼、多くのすぐれた詩文をつくった。
柳宗元は永州での地方官の任期を終え、815年に10年ぶりに長安に戻ったが、それも束の間、まもなくさらに遠方の柳州(現在の広西チワン族自治区)の地方官として赴任した。彼はそこで、行政の実質的な権限をもち、奴隷解放などの目覚まし改革を断行し、改革派としての理想を地方官として実現した。しかし、彼の名声はエリート官僚としてではなく、失意の中で造った多くの詩文によって後世に知られるようになった。819年に任地の柳州で亡くなった。<興善宏『中国名文選』2008 岩波新書 第九章「見る所無きに至りて、而も猶お帰るを欲せず」柳宗元 p.153-166 による>
その生涯
山西省の下級官僚の家に生まれ、学業に励んで21歳で科挙の進士科に合格して進士となった。さらに博学宏詞科の難関も乗り越えエリート官僚コースのスタートを切った。「古文運動」を共に進めることになる韓愈はこの試験に三度も失敗しており、柳宗元の官僚生活は順風満帆であったといえる。その頃、唐の中央官界では新進官僚を中心に、王叔文を中心に政治改革をめざすグループができており、柳宗元もそれに加わった。ところが805年、老齢の徳宗が死去した時、皇太子が立って順宗となったが、順宗は風疾(脳出血)で倒れており、口もきけない状態だった。順宗の即位を強引に進めたのは王叔文ら改革派の官僚で、一挙に改革を進めようとした。それに抵抗したのが宦官勢力であり、軍隊の支配権を握って改革派官僚に反撃、半年後に順宗の子の憲宗を擁立することに成功した。年号が永貞と改められると共に王叔文のグループは政権から一掃された。これが「永貞の変」と呼ばれる政変で、王叔文はいったん地方官に左遷された後、死刑に処せられた。柳宗元もことの時位を落とされて結局、湖南省の永州の司馬(地方官の一つ)に左遷された。柳宗元はそれから十年間、エリートから一転して地方の生活へと言う失意を味わうこととなったが、その屈折した心境を慰めたのが永州の美しい自然だった。自由な時間を得た永州で、彼は山川をわたりあるき、事前の美しさに開眼、多くのすぐれた詩文をつくった。
柳宗元は永州での地方官の任期を終え、815年に10年ぶりに長安に戻ったが、それも束の間、まもなくさらに遠方の柳州(現在の広西チワン族自治区)の地方官として赴任した。彼はそこで、行政の実質的な権限をもち、奴隷解放などの目覚まし改革を断行し、改革派としての理想を地方官として実現した。しかし、彼の名声はエリート官僚としてではなく、失意の中で造った多くの詩文によって後世に知られるようになった。819年に任地の柳州で亡くなった。<興善宏『中国名文選』2008 岩波新書 第九章「見る所無きに至りて、而も猶お帰るを欲せず」柳宗元 p.153-166 による>