韓愈(韓退之)
唐代の詩人、文章家。古文復興に努める。また仏教を批判して、中国古来の儒教の刷新を試み、次の宋学の先駆けとなった。
かんゆ。韓退之(かんたいし)とも称す。退之は字(あざな)。768~824 唐詩を代表する一人で中唐の人。貴族階級のでではなく24歳で科挙に合格した。官僚としては不遇であったが、詩人としては白居易と並び称され、文章家としては柳宗元とともに古文復興運動の中心人物として活躍した。その文章は四六駢儷体の形骸化を批判して、漢や魏の古文の復興に努め、後に唐宋八大家の最初の一人とされる。また儒学者としては、仏教や道教の空論を激しく否定して、儒学の復興に努めた。『原道』などの書物では、儒教の新しい解釈をほどこし、後の周敦頤などの宋学の先駆となったとされる。
韓愈の仏教批判
韓愈は819年、唐の憲宗が長安の西、鳳翔にある法門寺で見つかったという仏陀の指の骨をとりよせて崇拝していると言うことを聞いて、厳罰を覚悟して皇帝を激しく批判する文を奉った。その上表文は当時の一流の文章としても知られている。(前半は唐の仏教に掲載)(引用)私は陛下のご命令によって、僧の一団が鳳翔に仏舎利を取りにいったということを聞き、また、陛下がそれが宮城に運ばれるのを高い塔からご覧になり、さらに、陛下は仏舎利が鄭重にもてなされ、すべての寺々で順番に拝まれるように命令されたと聞き及んでおります。陛下の召使いは愚かではありますけれども、陛下がこの仏陀によってたぶらかされるのを目視するに忍びません。そして、陛下がなさっていることは決して幸運を祈ることにはならないことを思わざるを得ません。……つまり韓愈は、仏教徒の仏舎利崇拝を、野蛮で不浄な夷狄の風習として、とうてい受け入れられないと息巻いているわけだ。当時の民衆の中にも、仏教によってインドから持ち込まれた火葬などの習慣を嫌う風潮があったらしい。唐末の9世紀には韓愈のような儒学者からだけではなく、道教教団からの反仏教運動が強まり、武宗による会昌の廃仏(845年)が行われたのは、このような背景であったことが考えられる。
さて、仏陀は夷狄の起源に属します。彼の語る言語は中国語とは異なっておりました。……もしも仏陀が今日生きていて彼の国から使節として、この長安の都にやって来て、宮中に参内したと想像してみましょう。陛下は彼を鄭重にもてなすでありましょう。……
しかるに、今や、彼は死んでから久しいのに、彼の朽ち果てた骨、彼の悪い臭いがする汚れた遺品が宮中の禁内に入ることが許されるとしたならば、どれほど取るに足らない些事だと申すことができましょうか? 孔子様はおっしゃいました。「幽霊や鬼神のたぐいは敬して遠ざけよ」と。……陛下はなんの理由もなく、不浄なものをあらかじめ魔除けもなさらずに引き入れ、御自らそれを取り扱われました。そして、草箒も桃の木の枝(ともに魔除けの道具)もお使いになりませんでした。……私は陛下がこの骨を役人たちに渡され、水か火の中に投げ入れてしまわれることを切に懇願し奉ります。長く災いの根を除き国中の疑惑を取り払い、後の世の惑溺を予防されることとなりましょう。……
もし仏陀が超自然的力をもち、復讐して害を及ぼすとしたならば、いかなる非難も報復も、私個人に下るのが妥当でありましょう。天よ、私の証人となり給え。私はそれを後悔いたしません。恐れかしこみ、最高の誠意を込めて、私はうやうやしく、これらのことが知られますよう、私の嘆願書を提出致します。<E.ライシャワー/田村完誓訳『円仁 唐代中国への旅』1963初刊 1999講談社学術文庫刊 p.342-346>