宦官
中国などの王朝の宮廷で皇帝や後宮に仕える去勢された男性。常に皇帝の側にあるため、政治的な力を持つことが多かった。特に漢、後漢、明、清などでは強い実権を持つものが現れ、官僚派との権力闘争を展開した。
宦官(かんがん)とは、去勢された男性で、宮廷に奉仕する人を言う。世界史の学習では、中国の歴代王朝における宦官が重視されるが、宦官と同様の存在は中国だけではなく、インドやオリエント世界、ギリシア、ローマ、イスラム世界、トルコなど国家に広く見られる。日本に存在しなかったのはむしろ特異なことである。 → 明代の宦官
「この世にお前ほど非道な仕事を生業としてきたものはないぞ。一人前の男であったわしを、何の役にも立たぬ身体にしてしまったのは、一体わしまたはわしの身内のものが、お前またはお前の身内のものに、どんな悪事を働いたというのだ。あのときお前の企んだことごとが、神々の目にふれぬとでも思ったのか。・・・」
宦官が政治に関与して、発言権をましたのは、漢の武帝の時代に、司馬遷が中書令という重職(皇帝の秘書官)に就いたことから始まる。彼らは次第に組織を作り、外戚の勢力や、官僚(彼らは儒教の理念から宦官に反対した)たちと対抗するようになり、次第に政治の混乱の要因となっていった。
後漢の党錮の禁 後漢では、紙を発明したとされる蔡倫も宦官であったが、特に宦官と官僚の争いが激しくなり、166年と169年には二度にわたり党錮の禁という宦官による党人(官僚)の弾圧が行われた。後漢の宦官については次の説明がわかりやすい。
エジプトとインカの宦官
古代エジプトとインカ帝国にも宦官が存在した。エジプトでは、文献では確かめられないが、ハーレム(王宮の中の女性だけの部屋)が存在していたので宦官も存在したと考えられる。発掘例によると、貴族の墓の中から、ペニスを切り取られた男性のミイラには、ペニスのあとに青銅で作ったペニスが包帯で巻かれていたという。これは宦官と同じような役割の人だったと推定されている。またインカでは太陽の処女の宮殿の使用人や番人はみな去勢されていた。太陽の処女とはカクリャワンといって宮殿内に住み、皇帝のための上製の衣料や祭典用のチチャ酒をつくっていたが、実際にはこれが後宮だった。太陽の処女と関係した男は絞首刑、女は生き埋めにされたという。<増田義郎・吉村作治『インカとエジプト』岩波新書 p.170-172>ペルシア帝国の宦官
ヘロドトスの『歴史』は紀元前5世紀前半のペルシア戦争の経緯を余すところなく伝えているが、その一節に、アケメネス朝ペルシア帝国のクセルクセス1世に仕える宦官の話が出てくる。それによると、ペルシアには捕虜や少年を買い取って去勢を施し、宦官にして売り飛ばす商人がいたという。(引用)クセルクセスは子どもたちにその守役としてヘルモティモスという者をつけてやった。これはペダサ生まれの人間で、王側近の宦官の中で二位には下らぬ地位を占めていた男である。・・・このヘルモティオスは、われわれの知る限り他の例のないほどのすさまじい復讐を果たし、昔の恨みをはらした男である。彼は敵の手に捕らえられて売りに出され、パニオニオスというキオス人に買われたが、このパニオニオスというのが世にも非道な職業を営んで生計を立てている男であった。つまり器量のよい男の子を買い入れるとこれを去勢し、サルディス(ペルシア王の王宮所在地)やエペソスへ連れていっては高値に売りさばいていたのである。異国では宦官がきわめて信頼できるという理由で、普通の人間より高値に売れるからであった。そこでこれを生業としていたパニオニオスは、多数の人間を去勢したのであったが、ヘルモティモスもその一人であった。しかしヘルモティモスには運の悪いことばかりが重なったわけではなく、彼はサルディスから他の献上品とともに王の許へ送られ、やがてクセルクセス側近の宦官中、最も重用されることになったのである。<ヘロドトス/松平千秋訳『歴史』下 岩波文庫 p.209>
Episode 宦官のすさまじい復讐
さてヘロドトスの言うこのヘルモティモスが「すさまじい復讐を果たし、昔の恨みをはらした男」というのは、どんなことだろうか。ペルシア王がサルディスにあって、いよいよアテネ遠征の軍を起こそうとしてたころ、ヘルモティモスはさる用件でアタルネウスと言う町に行った。そこで偶然にパニオニオスに遭遇したヘルモティモスは、親しげに長々と話し込み、自分が彼のおかげで仕合わせに恵まれたので、ぜひ恩返しをしたい申し出た。パニオニオスが喜んでその申し出を受け、妻子を連れてやってくると、ヘルモティモスは彼を妻子もろとも捕らえてしまった。「この世にお前ほど非道な仕事を生業としてきたものはないぞ。一人前の男であったわしを、何の役にも立たぬ身体にしてしまったのは、一体わしまたはわしの身内のものが、お前またはお前の身内のものに、どんな悪事を働いたというのだ。あのときお前の企んだことごとが、神々の目にふれぬとでも思ったのか。・・・」
(引用)ヘルモティモスがパニオニオスにこのように罵声を浴びせた後、パニオニオスの子供がその場へ連れてこられ、パニオニオスはわが子四人の陰部をわが手で切断することを強制された。彼が止むことなくそのとおりにした後、こんどは子供たちが強制されて父を去勢したのであった。このようにしてパニオニオスには天罰が下り、ヘルモティモスの恨みもともにはらされたのである。<ヘロドトス/松平千秋訳『歴史』下 岩波文庫 p.211>
中国古代の宦官
最も有名なものが中国の宦官で、その起源は、殷代の甲骨文字に宦官を示す文字が見られるので、そこまでさかのぼることができるという。宦官は、本来は異民族の捕虜を去勢して宮廷に仕えさせることと、罪を得て宮刑という去勢される刑罰に処せられ、宦官となる場合とがあった。後者で有名なのは、漢の武帝の怒りを買って宮刑にされた司馬遷である。中国の各王朝の宮廷では、皇后を中心とした後宮に出入りでき、皇帝の身の回りの世話をする役目をもって、次第に発言力を強めていった。宮刑は隋代に廃止されたため、唐代からは民間で去勢された人物を地方ごとに献上させるようになった。宮廷への供物として宦官にさせられたのは、福建省や広東省など南方の貧しい人々が人身売買された例も多いという。やがて自ら希望して宦官となる(自宮という)ものも多くなったが、それは富貴と権勢を求めてのことであり、その求めに応じて去勢を施す専門職が現れたりした。中には、貧しい親が子供の将来を思って宦官にすることや、老後の生活の安定を願って自ら宦官になることも多かった。宦官が政治に関与して、発言権をましたのは、漢の武帝の時代に、司馬遷が中書令という重職(皇帝の秘書官)に就いたことから始まる。彼らは次第に組織を作り、外戚の勢力や、官僚(彼らは儒教の理念から宦官に反対した)たちと対抗するようになり、次第に政治の混乱の要因となっていった。
後漢の党錮の禁 後漢では、紙を発明したとされる蔡倫も宦官であったが、特に宦官と官僚の争いが激しくなり、166年と169年には二度にわたり党錮の禁という宦官による党人(官僚)の弾圧が行われた。後漢の宦官については次の説明がわかりやすい。
(引用)後漢の皇帝は多く短命で、和帝以降は幼帝の即位が続き、幼いころは外戚が政権を握った。やがて、成長した皇帝は、外戚から政権を取り戻す。そのときに、活躍したのが宦官である。宦官とは、後宮に仕える去勢された男子のことで、幼いころ母が去勢し、宮中に預けたものが多かった。皇帝は、宦官を勉強や遊びの相手として育つため、宦官に親近感を持ち、宦官も皇帝への絶対の忠誠心をもっていた。したがって、政権を掌握している外戚を打倒するときに、皇帝が最も頼りにできるものは、宦官であった。こうして和帝以降、第十一代の桓帝期に党錮の禁が起こるまで、外戚と宦官は、交互に政権を担当する。<渡邉義浩『漢帝国――400年の興亡』2019 中公新書 p.210-211>党錮の禁は宦官が皇帝に働きかけて官僚を逮捕、殺害した事件で、それ以降は宦官が宮廷の主導権を握る事態は、184年に始まった黄巾の乱のころまで続いた。 以後の各王朝も同様に、宦官の存在は政治を左右する場合もあった。唐においても宮廷内で宦官は大きな力を振るっていたが、それを滅ぼした朱全忠が建国した後梁では宦官は一掃され、武断政治が敷かれた。しかし、その後の清に至るまでの各王朝では宦官は制度として続いた。
Episode 宦官はなぜ日本に存在しなかったか
上記の説明は主として三田村泰助著『宦官』に拠った。この書には、上記の他、宦官でも結婚したこととか、明代には宦官学校があったなど、興味深い話が多い。同書の最後で、著者は、宦官はなぜ日本に存在しなかったか、を論じている。それによると、日本には周辺の異民族を捕虜にして宦官にすることがなかったこと、つまり島国であったことを原因としてあげている。また、日本が輸入した唐の文化のうち、刑法では唐の五刑である笞・杖・徒・流・死はそのまま採用したが、宮刑はない。それは宮刑は隋代に廃されたからである、と説いている。<三田村泰助著『宦官-側近政治の構造-』1963 中公新書(現在、中公文庫で再刊)>明代の宦官
明を建国した朱元璋(太祖洪武帝)は、皇帝による専制政治の体制を強め、すべて親政によって事を処し、官僚の力を抑えことに成功した反面、皇帝の身辺の世話をする宦官の役割が増大した。それでも太祖の頃は宦官の政治関与はきびしく戒められていたので、大きな問題にはならなかった。続く永楽帝の時から宦官の進出はめざましく、鄭和に代表されるように、外交や軍事面でも宦官が活躍した。永楽帝は秘密警察などにも宦官を重用し、その後の明の宮廷では宦官が集団的な勢力を形成し、政治にも関与して官僚勢力と対立するようになり、明の政治の混乱の一因となる。明代には内閣で起案された文書で皇帝が決済しなければならない文書はすべて司礼監という宦官の機関で処理されることになったため、内閣よりも宦官の司礼監の方が力を持つようになった。宦官の政治への介入を批判する官僚グループは東林派を形成し、万暦帝の17世紀になると東林派と非東林派の党争が激しくなる。次の清朝においても宦官は存続したが、明朝の失敗を反省し、その数を減らし、政治への介入をさせなかった。Episode 宦官魏忠賢の「九千歳」
明末の17世紀には、宦官の台頭を非難する官僚のグループ東林派(党)が形成され、宦官派=非東林派との争いは頂点に達した。この時期の宦官の中心人物は魏忠賢で、1620年代に政権を握り、秘密警察(東廠)を動かして東林派を弾圧し、東林書院を破壊した。彼に取り入って栄達を図ろうとするものが多く、宦官魏忠賢は専横を極め、彼を神と祭る生祠を全国に建てさせたり、北京の街を通る時は民衆に土下座させ、皇帝のために「万歳」というところを千歳を引いて「九千歳」と叫ぶことを強要したという。1627年、後ろ盾だった熹宗が死に、毅宗崇禎帝(明の最後の皇帝)が即位すると、新帝は魏忠賢の専横に反感を持っていたので、彼を弾劾する声が強まり、魏忠賢も逃れられないと知って首をくくって死んだ。毅宗はその死体をはりつけにし、天下に罪を明らかにして民衆の怒りを収めなければならなかった。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.453~456>最後の宦官
中国の最後の王朝、清朝の宮廷にも多くの宦官がいた。清朝末期に実権を握った西太后とその周辺の女官に仕え、政治にも介入して隠然たる勢力を持っていた。彼ら宦官も、1912年の清朝滅亡と共に姿を消すが、20世紀の初めまで続いたということに驚かされる。<張仲忱『最後の宦官小徳張』朝日選書 1991>