和同開珎
708年、日本で鋳造された本格的な貨幣。銀銭と銅銭があった。律令制はこれ以降、10世紀中頃まで皇朝十二銭を発行し続けた。なお最初の銅銭には7世紀後半に鋳造された富本銭がある。
日本の大和政権は、645年の大化の改新以来、唐に倣った中央集権国家の建設を目指していたが、その一環として、708年に和同開珎を発行した。これは、唐の通貨、開元通宝を手本とした貨幣で、銀貨と銅貨が同時に発行された。和同開珎の「珎」は、珍の異体とみて「チン」と読む説と、旧字体の寶の略字とみて「ホウ」と読む説が対立していたが、現在はチン説が優勢なようだ。円形・方孔で四文字、定量(一匁=3.75g)は、日本のこの後の貨幣の基本形となる。<以下、高木久史『通貨の日本史――無文銀銭・富本銭から電子マネーまで』2016 中公新書 p.12-14>
朝廷はまた、銭を供給するだけでは際限なく鋳造しなければなるので、その回収を図り、租調庸のうちの調と庸を銭で支払うことを認め、朝廷へ銭を納めた者に位階をあたるという蓄銭叙位令を出した。これらの施策に見られるように、朝廷が想定する和同開珎は、朝廷が必要な物資や労働力を調達すること、言いかえれば国家支払手段としての機能を期待しており、一般的な交換手段の機能は第一目標にはしていない、というものであったが、その回路から外れて流通していった。和同開珎の勝ちはもともとは「政府の債務証書」としての信用であったが、次第にそのようなことは意識せず、まわりの人が使っているからという理由で、和同開珎を使うようになった。特に都市においてはかなりの流通があった。ただし和同開珎が発行されても、従来の米や布も通貨として用いられていることには変化はなかった。
日本では9世紀まで貨幣が鋳造され、都を中心とした機内では、銭がなければ生活を維持できない、という状況になった。しかし10世紀になり、延喜・天暦の治と言われた時期の958年の乾元大宝を猥語に貨幣の鋳造は行われなくなった。銭が発行されなくなったのは、9世紀以来、銅の国内生産が不調になったことと、大規模な建設事業や戦争がなく、発行益える必要がなくなったためである。
東アジアの中の日本の通貨発行9世紀以前の中国周辺で独自の金属通貨を継続的に政府が発行したのはにほんだけであり、10世紀に日本が通貨発行をやめた時期に、遼(中国北部)、ベトナムの丁朝・前黎朝、朝鮮の高麗などで発行を始めている。日本の銭発行の試みは東アジアの中で早熟の法だった。
日本最初の貨幣は
和同開珎は長く、日本最初の貨幣とされていたが、現在ではそれ以前に、天智天皇の時に無文銀銭が、天武天皇の時に富本銭(銅銭)が発効されている。ただしこれらは大津京の造営や藤原京の造営の際の政府による労賃の支払いに充てらることが主目的で、庶民の日常生活での通貨の役割は持たされていなかった(富本銭は呪術などに使う厭勝銭(えいんしょうせん)であるという説があったが、現在では否定されている)。和同開珎も発効の目的は平城京の建設などの物資の購入や労賃の支払のためであったが、それ以上に実社会で流通するようになった。朝廷が翌年早くも和同開珎銀銭の私造を禁止していることは流通が広がったことがわかる。同時に高額取引は銀銭で、少額取引は銅銭で行うことを命じているが、それはそれまで米屋布などでなく銭での取引を人びとに促したことを意味している。<高木『同上書』p.7-10>和同開珎の性格
710年代には和同開珎銅銭に関する政策に集中し、まず供給面では官僚の給与の一部を銭で支払うことにした。また社会での使用を促すための政策として、銭一文=籾殻(もみがら)つきの米六升と価格を法定した(このころの1升は現在の約4割)。当時の平城京建設の労働者の日当は銭一文だった。また田を貸借する際の地代は銭で支払うことを命じた。平城京の市で朝廷発効の銭を受けとらない事を禁じ、あわせて私造銭の使用禁止をきびしくした。朝廷はまた、銭を供給するだけでは際限なく鋳造しなければなるので、その回収を図り、租調庸のうちの調と庸を銭で支払うことを認め、朝廷へ銭を納めた者に位階をあたるという蓄銭叙位令を出した。これらの施策に見られるように、朝廷が想定する和同開珎は、朝廷が必要な物資や労働力を調達すること、言いかえれば国家支払手段としての機能を期待しており、一般的な交換手段の機能は第一目標にはしていない、というものであったが、その回路から外れて流通していった。和同開珎の勝ちはもともとは「政府の債務証書」としての信用であったが、次第にそのようなことは意識せず、まわりの人が使っているからという理由で、和同開珎を使うようになった。特に都市においてはかなりの流通があった。ただし和同開珎が発行されても、従来の米や布も通貨として用いられていることには変化はなかった。
その後の日本の通貨
和同開珎の時代は約50年続き、760年に万年通宝(銅)などの三種の通貨が発効されて以後、朝廷による貨幣発行が続き、総じて皇朝十二銭といわれている。これらも基本的な性格は、改鋳の利益を得ること、平城京の造営や、藤原の中諸の時の新羅遠征計画のための出費、8世紀末からは長岡京や平安京の建設事業のため、という意図がが強かった。日本では9世紀まで貨幣が鋳造され、都を中心とした機内では、銭がなければ生活を維持できない、という状況になった。しかし10世紀になり、延喜・天暦の治と言われた時期の958年の乾元大宝を猥語に貨幣の鋳造は行われなくなった。銭が発行されなくなったのは、9世紀以来、銅の国内生産が不調になったことと、大規模な建設事業や戦争がなく、発行益える必要がなくなったためである。
東アジアの中の日本の通貨発行9世紀以前の中国周辺で独自の金属通貨を継続的に政府が発行したのはにほんだけであり、10世紀に日本が通貨発行をやめた時期に、遼(中国北部)、ベトナムの丁朝・前黎朝、朝鮮の高麗などで発行を始めている。日本の銭発行の試みは東アジアの中で早熟の法だった。
銭の流通の終わり
銭の発行が終わったあとも、銭は使用され続けている。しかし、980年代になると、銭の市価が金属そのものの価値まで下がり、品質が悪い銭を人びとが嫌ったため、銭は使われなくなった。10世紀には銭が発行されなくなっただけでなく、使われなくなっていった。11世紀になると京都周辺を除き、銭が流通しなくなった。例えば『今昔物語集』のうち11世紀の説話には銭に関するものがない。その一方で、11世紀には中世的な通貨システムの兆しとして、輸入船の使用(宋銭の流通)と官庁・公家・自社の中に紙媒体を通貨として使う切付系文書があらわれる。