宋銭
中国の宋代(北宋・南宋)で発行された銅銭。日本にも多数輸入された。次の元は銅銭は発行されなかったが、江南では宋銭の使用が続き、日本への輸出も続いた。
10~11世紀の中国では宋代の商工業の発達を背景に大量の銅銭が鋳造され、流通した。日宋貿易で日本にももたらされ、貨幣を鋳造しなくなった日本では宋銭が広く流通した。中国でも、元、明時代を通じて流通した。宋の銅銭(宋銭)は、中国商人のジャンク船による交易活動によって、東アジア、東南アジア諸地域にひろがり、世界通貨として使用された。日本各地から大量の宋銭が発掘されているが、そればかりでなく、アフリカの東海岸のザンジバルなどでも宋銭が発掘されており、その広がりを示している。その結果、11世紀の中頃には銅銭の不足が深刻となり、その不足を補うため、北宋では世界最初の紙幣である交子が発行されるようになり、南宋では会子が流通するようになる。
このような10~11世紀の中国における貨幣流通の発達は中世ヨーロッパの貨幣経済の発達に先行している。
このような10~11世紀の中国における貨幣流通の発達は中世ヨーロッパの貨幣経済の発達に先行している。
元代の宋銭
中国の歴代王朝は、基本は銅銭であり続け、いわば銅銭主義がとられたが、元のフビライはそのこだわりをあっさりと捨て、通貨の素材を銅にこだわらず、銀を基本通貨とし、また広範な需要に応えて、紙幣である交鈔も発行した。金も少量であるが高額な下賜品として用いられた。また専売制がとられた塩の引換券である塩引(えんいん)は高額紙幣の役目をもっていた。ところが南宋を滅亡させ、江南が版図に入ると、そこでは銅銭が基本通貨として流通していた。フビライは銅銭の鋳造は行わなかったが、宋銭の使用は許したので、江南では宋銭もまた流通した。しかし元は納税は銀と紙幣に限ったので、人びとは従来のように宋銭をため込む必要がなくなり、だぶつき始めた。そのだぶついた宋銭は、大量に鎌倉時代の日本に輸出された。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.252-255>日本で見つかる大量の宋銭
鎌倉幕府は紙幣はおろか、貨幣を鋳造することはなかったので、日本の実質的な基準通貨として宋銭が流通するようになった。現在でも鎌倉市内や全国の鎌倉時代の遺跡から大量の宋銭が見つかることがある。これらは日本においていかに宋銭が広く流通していたかを示しているが、宋銭だからといって宋から輸入されたのではなく、元から輸入されたものであった。一説には鎌倉の大仏も宋銭を鋳つぶして鋳造したという。Episoce 韓国の海中から見つかった貿易船
また1976年に韓国の木浦の新安沖の海中で見つかった沈没船からも大量の宋銭が発見された。発見された海域から「新安船」といわれるこの沈没船は、積み荷に付けられていた荷札などから、元の寧波の港から日本の博多港に向かっていた船で、京都の東福寺の造営を目的とした貿易船であったことが判った。なんとその船中から、1万8000点にのぼる中国の陶磁器、青磁とともに、28トンにも及ぶ大量の宋銭がみつかった。これは、元代においても、宋銭が盛んに日本にもたらされていたことを物語っている。日本と元は、元の日本遠征もあって緊張していたが、それは政府間の対立であり、民間レベルでは盛んに交易が行われていたのだった。<杉山正明『大モンゴルの時代』1997 世界の歴史9 中央公論新社 p.9-18>