塩専売制
中国の各王朝に見られるが、特に8世紀後半からおこなわれた唐の塩の専売制は、塩の密売を盛んにし、その取り締まりを強化したことで黄巣の乱が起こり、唐王朝の滅亡を決定的にした。
安史の乱の最中の761年、唐は困窮する財政を補うため、塩の専売制に踏み切った。かつて漢の武帝は塩・鉄・酒の専売制を採用したが、その後も各王朝は財政が苦しくなると塩を専売として切り抜けており、唐もそれに倣ったものである。淮河と長江の間の海岸(江淮地方)からとれる海塩が主であるが、他に山西省の塩池のように塩分の濃い湖水からとる池塩、四川省のように地下水から塩分をとる井塩などがある。
さらに塩価に10倍の専売税(塩税)をつけて売り、中央歳出の半分以上を塩専売の利益でまかなうほどになった。塩専売制は、781年からの両税法施行とともに唐王朝をなお1世紀以上存続させる財政安定策となった。
しかし、農民が働くために補給しなければならない塩に課税するという間接税政策は、悪法でしかなく、闇で安価な塩が出回り、また塩の密売人が利益を上げることとなった。政府は塩の密売を厳しく取り締まったが、そのような中から875年に塩の密売人であった黄巣が反乱を起こすことになる。
唐の塩専売制
唐ではそれまでは製塩業者と塩商人が自由に取引していたが、756年に生産量の最も大きかった江淮地方(こうわい、長江と淮河の河口のあいだの海岸地方)でこの地方の徴税長官であった第五琦(だいごき、人名)がはじめて専売として成果を上げた。さらに761年に第五琦は塩鉄使となり、塩専売を全国に拡大した。<布目潮渢・栗原益男『隋唐帝国』講談社学術文庫 p.321-322,488年表>さらに塩価に10倍の専売税(塩税)をつけて売り、中央歳出の半分以上を塩専売の利益でまかなうほどになった。塩専売制は、781年からの両税法施行とともに唐王朝をなお1世紀以上存続させる財政安定策となった。
しかし、農民が働くために補給しなければならない塩に課税するという間接税政策は、悪法でしかなく、闇で安価な塩が出回り、また塩の密売人が利益を上げることとなった。政府は塩の密売を厳しく取り締まったが、そのような中から875年に塩の密売人であった黄巣が反乱を起こすことになる。
参考 消費税の悪法たる所以
中国史の権威として名高い宮崎市定氏は、『大唐帝国』で唐王朝滅亡の過程で起こった黄巣の乱の原因としての塩専売制について、次のような説明をしておられる。(引用)日常の生活に必要欠くべからざる塩になん十倍の消費税をかけるのは、そもそもはじめから無理無体な政策である。なんとなれば、そのようなやり方は必然的に闇取り引きを誘発せねばおかぬからである。もちろん政府は厳重な取締りを怠らない。しかしそこにはきわめて大きな危険が存在する。というのは、闇取り引きには常に奇妙な法則が支配するからである。まず公定価格が高ければ高いほど、闇取り引きはさかんになる。これにたいして、取締りが厳しければ厳しいほど闇取り引きの利益は大きい。つまり厳重な取締りのもとに高い塩を売ろうとすれば、それだけ闇取り引きが繁昌し、闇商人もしたがって多くなるわけである。
闇取締りには官憲の数を多くするのと、制裁を厳酷にするとの二方策がある。ところがここにも奇妙な法則が成立する。官憲の数を多くすればするほど、その費用が多くなり、それだけ公定価格を引き上げなければ採算がとれない。法律を厳しくすればするほど、闇商人の方でも対抗策を講じ、あるいは秘密結社を組織し、あるいは消費者と緊密に連絡するので摘発が困難になる。同時に官憲が買収される機会も多くなる。
結局、塩専売のような政策はほんの一時、急場をしのぐために用うべきであって、もしそれが永続すると、秘密結社を培養し、社会不安を醸成するというおそるべき結果を招来するものなのである。ところがこのような悪税ほど、一度はじめたらばやめられないのが通常である。<宮崎市定『大唐帝国―中国の中世』1988 中公文庫 p.401>