唐
7世紀から10世紀初めまで長期にわたり中国を支配した王朝。周辺諸地域にもその支配を及ぼす世界帝国として発展し、都長安では国際的な文化が発展した。しかし、均田制を基盤とした律令体制は次第に行き詰まり、8世紀中頃の安史の乱を機にそのあり方を変えた。9世紀後半、黄巣の乱などの農民反乱が多発して衰え、10世紀初めに滅亡、中国は再び五代十国の分裂期となる。
参考 唐は漢民族の王朝か
唐王朝は漢民族ではない、鮮卑の拓跋氏という遊牧民の系統にある人々が建国した。しかし建国者である李淵は自らは漢民族であると称しており、胡族と断定することは出来ず、実際この時期にはかなりの程度、漢化が進んでいたので、単純に遊牧民国家と言うこともできない(李淵のページを参照)。彼らは五胡の一つとして3世紀ごろ華北に入ってきて晋の動乱に乗じて北魏を建国した。その中核は「関隴貴族集団」あるいは「武川軍閥集団」といわれる軍事集団であり、北魏の後、西魏・北周と継承され、次の隋が全中国を統一した。唐を建国した李淵は隋の官僚・武将であり、関隴貴族集団を継承していた。このように唐の支配層となったのは鮮卑系の非漢民族であった。つまり、唐はかつての秦や漢のような意味では漢民族の王朝とは言えないが、北魏以来の漢化政策によって漢民族との融合が進んだことも事実であり、漢民族の王朝としての歴史認識が一般的になっている。「漢化」の度合いについては諸説あり、最近ではその意義をあまり認めず、唐をあくまで「拓跋国家」ととらえるべきである、という考えも出されている。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.144~ 参照>たしかに均田制・府兵制などを軸とした律令制度、仏教の受容にみられる国際性などの唐王朝の特色には、従来の漢民族王朝とは異なる新しさがあることも見逃すことはできない。唐王朝を漫然と漢民族の王朝の続きと考えるのではなく、むしろ漢民族の王朝ではないと断定してから観ていく方がその実態を理解できるように思われる。なお、拓跋国家は教科書では帝国書院『新詳世界史B』で取り上げられており、山川その他の用語集にも見られるようになった。
胡漢融合国家 2016年検定済みの実教出版『世界史B新訂版』では「胡漢融合国家の誕生」という見出しで次のように説明している。「3~7世紀の中国は分裂と再統合の時代であり、民族融合の時代でもあった。華北で遊牧民(胡)と漢人は入り乱れて抗争するとともに混血や文化の融合が進み、そのなかで成立した北魏・隋・唐の王朝は鮮卑の拓跋氏出身者を中心に、それと協力した漢人貴族が支配層を形成した「胡漢融合政権」であり、その典型が「唐帝国」である。」<p.88>
この用語は他の教科書や用語集には今のところ取り上げられていないが、隋・唐が単純に漢人の王朝とは言い切れないことを理解するには、わかりやすい説明かも知れない。
参考 隋・唐は胡族の王朝という見方
2020年に刊行された中国史研究者岡本隆司さんの一般向けの本、『教養としての中国史の読み方』(PHP研究所)では、次の様に説明されている。中国の伝統的な歴史観では、皇帝になる(天命を受ける)者は漢人でなければならない、とされていたので、五胡をまとめて華北を統一した鮮卑拓跋氏の北魏から始まった北朝は、中に皇帝を名乗った者もいたが、正統ではないと考えられていた。正統の王朝は晋・東晋から南朝に引き継がれていたが、隋が武力で南朝を併合して統一王朝をつくると、隋の君主も出自は拓跋氏につらなっていたが、さすがに胡族出身の皇帝に天命が下ったと認めざるをえなくなった。続く唐を建国した李淵は煬帝の従兄弟なので、唐もまた胡族王朝と言える。
(引用)唐は西方の人たちから「タブガチ」と呼ばれていますが、これは「拓跋」がなまったものなのです。隋と唐は遣隋使、遣唐使などを通して日本とも関係が深い王朝なので、日本人の中には唐こそ「中国=漢文化」だと思っている人も多いのですが、実際には唐王朝は漢人ではなく、胡族の唐朝なのです。<岡本隆司『教養としての中国史の読み方』2020 PHP研究所 p.79>また後漢以来、確固たる地位を築いてきた漢人の門閥貴族が唐の皇帝をどう見ていたかを示す話として、唐の二代皇帝太宗(李世民)は「隴西の李氏」という古くからの名族のでであると自称していたが、実際には北魏の流れを汲む北方遊牧民であったことを知っている貴族たちは、当時の「家柄番付」で李世民を三流に位置づけた。面目を失った李世民は、怒って番付をつくり直させた、という話や、9世紀の文宗が皇女を一流貴族に嫁がせようとして「家柄が釣り合いませんから」と断られた、という話を紹介している。
隋・唐を漢文化の典型というのは間違った思い込みのようですが、同時に唐文化の国際性などの特徴が、従来の漢文化と遊牧民の文化を融合させた新しい「漢文化」を創造した、と見ることができる。だだし隋・唐を胡族の王朝としたとしても、後のモンゴル人の元や女真族の清のような征服王朝とは言えず、文化的には漢化しており、漢人王朝として統治したといえるだろう。
唐の皇帝政治
太宗は兄弟殺しという非常手段によって権力をにぎったが、その権力を維持するために、内治を重視し、政治の運営をいわばガラス張りにするとともに皇帝に意見をする役として諫官を置いた。これは中国の皇帝制度の歴史で思い切った転換を成し遂げたものであり、これが唐の皇帝政治が長く存続した理由と考えられる。南北朝までは皇帝(天子)の意志を拘束する制度は無かったが、唐の制度では中央政府の三省の中書省が皇帝の政策の決定に与り、それを実行するのが尚書省であり、その中間に門下省がおかれて中書省の決定した政策を審議する役とされた。門下省の長官を侍中といい、その下に諫議大夫を置いた。これがすなわち諫官である。
(引用)こうして政府の政策決定は従来のように天子の恣意によって行なうことができなくなり、中書での決定は門下の審議を経てはじめて有効となり、尚書省に交付されて天下に実施される。政策決定から実施まで、時間的にひまがかかることになり、その中間で輿論の審査を受けなければならない。いいかえれば天子といえども、ある手つづきを経なければ主権を行使できなくなったわけであるが、同時に天子はその責任を官僚とわかちあうことになった。言いかえればその自由を拘束されるとともに、過失を少なくすることができたのである。これが唐王朝の命脈をして当時としてはめずらしいながさを保たしめた一つの原因であろう。<宮崎市定『大唐帝国』中公新書 p.350>
唐の全盛期
626年、李淵の子の李世民は兄を殺し、父を退位させ(玄武門の変)て第2代皇帝太宗として即位、628年には一部の独立政権を滅ぼして唐の全国統一を完成させた。その前年の627年に貞観に改元、ここから太宗の死去の649年までを貞観の治といい、律令制の整備など内政が最も充実したこの7世紀前半が唐の全盛期とされている。また太宗は630年に東突厥を破り、西北の遊牧諸民族から天可汗の称号を与えられ、中華世界のみならず、遊牧民の世界を含む統治者として認定された。最大領土を実現
7世紀の後半、高宗の時にその領土は最大となった。当時北方の最大勢力であった突厥帝国は、隋の圧迫もあって583年にすでに東西に分裂しており、東突厥は太宗の時の630年に唐に服属し、高宗はさらに657年に西トルキスタンの西突厥を滅ぼした。東方では、660年に百済、668年に高句麗を滅ぼし、朝鮮半島・日本にも大きな影響を与えた。南ではベトナムに進出した。唐はこれらの征服地に対しては羈縻政策といわれる、州県に組み込みながら現地有力者に地方統治を委せる支配体制を採った。武韋の禍
高宗は政治を皇后にまかせるようになり、ついには664年から則天武后が実権を握ることとなった。690年、彼女は女性として中国の歴史上唯一の女帝を称し、国号を周(武周)と改めるなど、専横を極めた。則天武后が705年に死去し中宗が復位したが、中宗の皇后の韋后(いこう)が武后にならって実権を握ろうとして710年に中宗を毒殺した。しかし、睿宗の子の李隆基が韋后とその一派を倒して父の睿宗を復位させた。この一連の政治的混乱は後に武韋の禍と言われるが、かならずしも混乱していたわけではなく、西魏以来の門閥武官貴族に代わって、科挙によって人材本位で登用された官僚が皇帝の政治を補佐するようになり、むしろ律令制官僚政治が発展したという側面もある。8世紀の危機
712年に即位した玄宗(在位~756年)は翌713年から政治の引き締めをはかり、科挙によって進出した官僚による政治が行われて、一定の成果を上げて開元の治と言われる安定を取り戻した。イスラーム商人の来航も増え714年には広州に海上貿易を管理するための市舶司が置かれた。しかし玄宗皇帝の晩年は楊貴妃の兄の楊国忠など側近の専横が見られるようになって政治が乱れ、反発した節度使の安禄山が反乱を起こすと、755年~763年にわたる大乱の安史の乱となった。反乱はウイグルの協力などによって鎮圧されたが、その後は各地の節度使の台頭、宮廷での宦官と官僚の争いなどが続いた。
律令制の変質
唐はそれでも、南方の穀倉地帯を抑えていたので、その支配をなおも1世紀ほど続けることができた。しかし、その間、律令制国家を支える土地公有制の原則である均田制は、次第にくずれて土地私有である荘園が増加し、そのために租調庸制と府兵制を維持することが困難となってきた。そのような社会の変動に対応して、780年に両税法が施行されて税制の基本が転換された。また府兵制も行われなくなり、募兵制に移行した。761年には塩専売制を全国で実施し、税収の増加を図った。会昌の廃仏 唐の衰退
唐王朝は当初から道教を国教として扱い保護していたが、仏教やその他の西方起源の宗教にも寛容で、都長安が国際都市として繁栄したこともあって各宗教の施設が併存していた。しかし、9世紀に入ると武宗の時に道教を深く信仰したことによって仏教など他宗派に対する弾圧を行った。特に仏教に対する弾圧は大規模で会昌の廃仏といわれている。その背景には財政困窮があり、寺院の土地財産を没収し、僧尼を還俗させて働かせ、両税を徴収しようという意図もあったと考えられている。黄巣の乱 唐の滅亡
しかし、財政はさらに困窮したために塩専売制を強化したが、9世紀にはいるとかえって塩密売人の活動は活発となり、それへの取り締まりを強化した結果、875年に黄巣の乱が起こった。この反乱の鎮圧に手間取るうちに、南方の穀倉地帯が荒廃したため、唐はその経済的基盤を失い、節度使として勢力を伸ばした朱全忠によって、907年に滅ぼされた。 → 五代十国の争乱 宋/北宋
