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後漢

中国の王朝で五代の4番目。都は汴州。4年だけの短命に終わる。

 五代の4番目にあたる王朝。前漢の次の後漢(ごかん)と区別して、「こうかん」と読む。遼(契丹)の太宗が後晋を滅ぼし、中国を支配したが、遊牧民の遼(契丹)には租税を徴収する制度がなく、漢民族から略奪を続けるのみであったので反発が強くなり、遼は北方に引き上げた。そのすきに、後晋の節度使であった劉知遠(これも突厥=トルコ系の人)が947年に後漢を建国。都は同じく汴州に置いた。しかしわずか4年後の951年に、同じく節度使の郭威によって帝位を奪われた。それが後周である。なお、十国のなかで、漢を名乗ったものには他に、南漢(917~971年)と北漢(951~979年)がある。南漢は広東・広西に成立し南海貿易を行った。北漢は後漢滅亡後、劉知遠の弟が山西に建国。いずれもに滅ぼされた。 → 五代十国の争乱 
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