節度使
唐の後半、府兵制の崩壊に伴い、辺境におかれた藩鎮で募兵集団を指揮した司令官。次第に行政権も行使する地方政権に成長した。
唐の中期以降、均田制の崩壊に伴い、府兵制による辺境の防備が出来なくなると、唐王朝は募兵制に切り替え、地方有力者の子弟を募集して募兵とし、軍鎮をおいた。そして、一定地域の軍鎮を統括する藩鎮を置き、その募兵集団の司令官として節度使を任命した。節度使は律令の規定にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持つとともに行政権も与えられ、強大な地方権力に成長するようになる。
安史の乱後には、節度使は辺境のみならず、国内にも置かれるようになり、唐代には40~50に及んだ。これらは唐末には独立した地方政権となり、黄巣の乱後弱体化した唐王朝に代わって、各地で自立した。その一つが後梁を建国した朱全忠である。
節度使の具体例
節度使設置は710年に始まり、安西・北庭・河西・朔方・河東・范陽・平廬・隴右・剣南・嶺南の十節度使が設けられた。節度使には中央の上級官僚が兼任することが多く、次第に政争の具となり節度使同士が争うような事態となる。安史の乱を起こした安禄山は節度使として力を蓄えた人物であった。安史の乱後には、節度使は辺境のみならず、国内にも置かれるようになり、唐代には40~50に及んだ。これらは唐末には独立した地方政権となり、黄巣の乱後弱体化した唐王朝に代わって、各地で自立した。その一つが後梁を建国した朱全忠である。
武断政治から文治政治へ
五代十国の争乱の時代は、そのような節度使による武断政治が行われた時代であったが、宋の統一によって文治主義への転換に伴い、ようやくその兵力を奪われ実権を失う。