徽宗
宋(北宋)末期、12世紀初めの皇帝。絵もよくした皇帝として風流天子と言われた。1127年、靖康の変で金に捕らえられ、その地で没する。
徽宗筆 桃鳩図
徽宗の権力欲
徽宗の時代は、表面的には宋朝の繁栄が続き、皇帝権力は維持されていた。徽宗も後には風流天子と呼ばれて政治的に無能だったと評されることになるが、即位当初は政治に無関心だったわけではなく、改革を志し、民を思いやる面もあった。しかし、その権力の行使は次第に民政から離れ、芸術に対する関心に傾いていった。徽宗の関心はまず庭園に向けられた。庭園は建築、園芸を含む総合芸術であり、江南で発達していたが、華北でも造られるようになっていた。徽宗は都の北東部に万歳山という人工の人工庭園を築き、全国から珍木奇石を集めた。それが悪名高い花石鋼(かせきこう)で、大運河を使って石を運ばせ、国民の重い負担となった。<伊原弘『宋と中央ユーラシア』世界の歴史7 中央公論新社 p.32-33>
Episode 「風流天子」徽宗
靖難の変で金の捕虜となり、北方に連行され、その地で死んだ宋の徽宗は、皇帝としては無能な人だったとされるが芸術家としては一流の人物であった。若いときから書や絵画に優れ、また芸術家を保護し、風流天子と言われた。彼のもとで画院に集められた一流の画家たちが作り上げた写実的で当時に装飾性の強い画風を院体画という。徽宗自身の作品も残っており、その代表作「桃鳩図」は日本の某家に所蔵されている。Episode 徽宗と李師々
徽宗はまさに『水滸伝』の時代の皇帝であった。『水滸伝』にもたびたび「道君皇帝」として登場する。何とこの皇帝は夜な夜な宮殿を抜け出し、開封の花街に忍んで行き、李師々という芸妓と密会を楽しんでいる。おまけに李師々が手引きした梁山泊の盗賊の一人燕青にお墨付きを与えてしまう(第81回)。物語は李師々のもとで徽宗が梁山泊に行く夢を見るところで終わる(第120回)。もちろん大部分はフィクションであるが、当時実際に起こった方臘の乱や宋江を頭にした盗賊団の横行を下敷きにしている。また徽宗と李師々の密会は史実とされ、『宣和遺事』という他の小説にも材料とされている。『水滸伝』を実際の歴史を背景として読むと、単なる英雄豪傑の話とは別の面白さがある。<宮崎市定『水滸伝―虚構のなかの史実』1993 中公文庫>