金
女真の完顔阿骨打が1115年に満州に建国。中国の華北に支配を拡大し、二重統治体制を布いたが、華北に基盤を移してた結果、漢化が進んだ。13世紀にモンゴルの圧迫を受け始め、チンギス=ハンの侵攻を受け都を開封に移した。さらにオゴタイが侵攻し、ついに1234年に滅亡した。
金・南宋・西夏
金の華北支配
金は女真族の軍事組織である猛安・謀克を女真族の統治に適用し、支配下の華北の漢民族には州県制を適用するという二重統治体制をとった。1142年には、南宋に多大な貢納を約束させ、淮河(淮水)を国境として華北を金、江南を南宋が統治する第2次南北朝の状況となった(紹興の和)。この和議を結ぶと、華北の治安維持のため多数の女真族をその猛安・謀克の組織のまま、満州から華北の地に移した。
1153年、第4代の海陵王は、都を燕京(中都と称す。現在の北京)に遷し、華北支配を強化した。女真族は漢人とまじって居住し、耕地を与えられたが、税負担は漢人にくらべて軽減された。過重な負担を強いられた漢人の金に対する反発が次第に強まり、金滅亡の一要因となった。
金の漢化 北魏との違い
しかしその反面、金は華北を領有してその基盤を中国本土に移したことによって、次第に女真としての民族性を喪失し、漢化していった。この経過は、鮮卑が建てた北魏で、孝文帝が洛陽遷都などの漢化政策を進めたことと類似している。しかし、北魏と金では異なる面も見られる。金では漢化が進む一方、文化的には女真文字の制定など独自の文化を維持していた。最も異なる点は、金は二重統治体制をとり、女真族に対しては猛安・謀克で統治し、漢民族に対しては州県制を適用したことである。1127年には科挙制度も採用し、華北の中央・地方の行政に漢人を登用、儒教の指導理念も排除しなかった。
このように金の華北支配は、北魏と異なり、完全には漢化することなく遊牧民と漢民族の支配機構を併用したのであり、その点で「征服王朝」の概念に当てはまると言うことができる。<川本芳昭『中国史の中の諸民族』2004 世界史リブレット61 山川出版社 p.47-54 などによる>
金の滅亡
金が国家の基盤を華北に移したことは、満州に残された女真族にとって、さらに北辺の遊牧民からの脅威が増すことになり、金はその防衛にあたる必要が生じた。新たな脅威となって現れたのが、13世紀にモンゴル高原の遊牧民を統合し、急速に勢力を伸ばしたモンゴルのチンギス=ハンであった。金に対するモンゴル帝国の攻勢はチンギス=ハンの1211年に始まり、1次と2次にわたる戦争の結果、最終的にはオゴタイ=ハンの派遣したモンゴル軍の攻撃によって、1234年に滅亡する。
第1次モンゴル-金戦争 モンゴル軍の金への侵攻は、チンギス=ハンの時の1211年に始まる。このときの攻撃で首都の中都(燕京、現在の北京)の北方の守りである居庸関を破られ、以後毎年のようにモンゴル軍の侵攻を受ける。1214年、金は首都を維持できなくなり、南の汴京(開封)に遷都(貞祐の南遷)しなければならなかった。こうしてモンゴル帝国は現在の北京を中心とする一帯を支配下に収めた。
第2次モンゴル-金戦争 チンギス=ハンはその後征服の目標を西のホラズム=シャー国に向けたので、モンゴルの侵攻は一時収まったが、第2代オゴタイ=ハン(太宗)となって南進を再開した。1230年にモンゴル軍は作戦を開始、黄河を渡り開封に迫った。モンゴル軍と金軍の雌雄を決する戦いは1232年陰暦正月、開封の西南の三峯山の戦いだった。守る金軍は完顔哈達(ワンヤンハダ)率いる15万、それに対して攻めるトゥルイの率いるモンゴル軍は4万、あるいは1万3千であった。
(引用)寡勢のモンゴル軍は、なんと馬を降りた。塹壕を掘って、馬と我が身を隠した。あとがない金軍は、攻めに攻めた。しかし、飢えと寒さで、体力はたちまち尽きた。モンゴル軍は反攻に転じた。・・・金軍主力は全滅した。」金の食糧不足は、「人口圧」によるものだった。モンゴルの侵攻を恐れた華北の農民が開封に押し寄せ、食糧不足から社会不安が生じていたのである。「開封城内では疫病が発生し、90万以上の棺桶が出たと記録されている。木材の乏しい華北では棺桶は高価だったから、実際に死者は、遙かに多いと言われている。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.61>1232年、汴京(開封)は陥落、金王朝は帰徳に逃れ、さらに蔡州に逃れたが、哀宗は1234年に自決し滅亡した。中国南部を支配していた南宋は、モンゴル軍の南下に呼応して金の領土に侵入したが、モンゴルと南宋の協定は成立せず、金滅亡後は両国が境界線の淮水付近で衝突を繰り返すこととなった。