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秦檜

南宋の宰相。金との和平を主張し、主戦論の岳飛を捕らえて獄死させ、1142年、和平を実現した。

 しんかい。北宋の官吏であったが靖康の変に連行された。金で太宗が死に、熙宗の代となって淮水までの領土を確保し、それ以上の南進はとらないという方針変更があり、捕虜の秦檜も許されて南宋に戻った。秦檜は金の意図を南宋の高宗に伝え、宰相となって和平論を推し進め、主戦論を採る岳飛を捕らえ、無実の罪で告発して獄死させてしまった。そのうえで、1142年に、淮河を国境として北を金、南を南宋が支配する状況を固定化し、金に銀・絹を贈るという条件で和平を実現した(紹興の和)。和平後も長く宋の宰相の地位に留まり、1155年に没した。

始めは抗戦派

 秦檜は現在の南京の出身で、1115年に26歳で科挙に合格した後、大学学正(国立大学の管理にあたる)に任じられ、文官として北宋に仕えた。金の圧力が強くなると、はじめは秦檜は抗戦を主張する強硬派に加わり、金との妥協に反対した。1127年靖康の変で開封を占領した金は、開封に傀儡政権を樹立しようとして和平派官僚のリーダー張邦昌を皇帝にしようとすると、秦檜はそれに反対したため、金に捕らえられ、妻の王夫人とともに金に連行されることとなった。

和平派に転身

 南に逃れた宋王室の一人が高宗として即位し、南宋が成立すると、金は軍を南下させて追撃した。しかし金は江南の征服をあきらめて撤退し、北の金と南の南宋が対峙する形勢となった。そのような時期の1130年、秦檜は王夫人をともない南宋にあらわれた。秦檜は金では実力者ダランに仕えていたが、すきを見て脱走して来たという。秦檜は高宗に向かって開口一番、「天下の平穏無事を願われるならば、北は北、南は南とされるべきです」と言い、金のダランを通じて講和の道を求めるべきだと主張した。高宗は秦檜の説得を受けいれ、翌年には秦檜を宰相に登用した。その後、一時失脚した時期はあるが、すぐ返り咲き、1155年の死去まで、南宋の宰相として和平策を維持した。

主戦派との対立

 その後もしばしば金軍は南下して南宋を脅かしたので、南宋の将軍たちのなかには徹底抗戦を主張する主戦派も多かった。その中心にいたのが岳飛であり、彼らはそれぞれ家軍を率いてたびたび金軍を撃退して名声が高かった。それに対して秦檜は金との和平交渉を進めたが、金側のパイプのダランが失脚するなどの事情もあり、難航した。1141年、秦檜は和平交渉を進めるため、岳飛ら主戦派の将軍に対し、それぞれの家軍を解体して中央軍に再編することを伝えた。他の将軍がそれに応じるなか、岳飛は頑強に拒否した。そのとき、金でも和平に反対していた実力者が死んだという情報を得た秦檜は、同年10月口実を設けて岳飛とその息子岳雲を逮捕し、二ヶ月後に処刑した。

和議の成立

 こうして翌1142年、南宋と金の間に和議が成立した。その条件は、淮河を境とし、南宋は金に臣礼をとり、毎年、銀25万両・絹25万疋を支払うということであった。国内の主戦派が排除された南宋はこの条件を受けいれ、和平が成立、華北を放棄したことを代償に、平和を実現させた。これを年号をとり「紹興の和」という。この平和はモンゴルの侵攻によって金と南宋が滅ぼされるまで、約100年続くこととなる。

Episode 中国のマクベス夫人

 岳飛を逮捕したものの、さすがの秦檜も釈放するか処刑するか決めかね、屋敷の東の窓の下に座り込んでいた。するとそこに妻の王夫人があらわれ、さっさと殺せと煽動する。それでやっと決心のついた秦檜が、その夜、部下に命じて獄中の岳飛を絞殺させる……というストーリーが芝居や小説を通じて民衆に信じられている。「愛国英雄」岳飛を殺した「売国奴」秦檜を唆したのはその夫人だったという伝説が早くから喧伝されたのだった。マクベス夫人とは、シェークスピアの芝居で、夫を唆して王位を奪わせ、狂気に陥った女性。現在でも秦檜夫妻は中国では「極めつきの裏切り者」として憎悪の対象とされ、なんと杭州の岳飛廟の前には、鎖でつながれた秦檜夫妻の像があり、人々はこの像に石を投げつけ、ツバを吐きかけていたという。<以上、主として井波律子『裏切り者の中国史』1997 講談社選書メチエ p.210-221 による>
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井波律子
『裏切り者の中国史』
1997 講談社選書メチエ