臨安/杭州/キンサイ
隋の大運河の南の起点として発展。南宋が1138年に都を置き臨安といった。元代から貿易港として繁栄。マルコ=ポーロは「キンサイ」と呼んでその繁栄を伝えている。
隋の大運河の南の起点として発達
江南の主要都市
五代十国のひとつ、呉越国の都
唐末の混乱に乗じて、この地に節度使として勢力をふるった銭鏐(せんりゅう 852~932)は、907年、広州を都に呉越国を建てた。これが五代十国の争乱の始まりであり、十国のひとつに数えられている。呉越国は江南の開発を進め、広州の港湾を整備して都市としての基盤を作った。杭州の商人も盛んに日本の博多などに来航しており、呉越国は10世紀の日本の中国文化を摂取する窓口として重要な存在であった。南宋の都臨安となる
靖康の変で北宋が滅亡した後、南宋を建てた高宗がこの地に逃れ、1138年から都として、臨安または行在(あんざい、仮の都の意味)と呼んだ。こうして杭州(臨安)は、中国の南半分を支配する南宋の都となり政治都市としても重要なところとなった。この時代にはこの杭州と湖州を中心とした浙江省は、隣接する長江下流の江蘇省(その中心は蘇州)とともに中国で最も穀物生産の豊かな地域となり、「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と言われた。Episode 花魁の故郷
南宋の都臨安として杭州は急速に大発展、華北から逃れてきた役人や兵士だけでなく商人も集まり住み、雑多な街並みが形成された。そこに集まる人々にはさまざまな光と影があたることとなった。(引用)苦労の末に臨安にたどり着いた人々の生活は楽ではなかった。南宋の臨安を主題にした小説には、生き別れた者の出会いを語るものがある。流浪の果てにだまされて高級遊女に身を落としたのが花魁(かかい)という女性だ。平家滅亡時に官女が遊女となったように、北宋末にも、身分の高い女性がずいぶん身を落とした。一晩でもその客にと願う油売りの若者。一所懸命貯めた銀をさらえて客となりつつもうぶな若者に心を寄せた花魁がそい遂げてみると、若者のもとで働く老夫婦は花魁の親。お礼に油を奉納してまわると、そこで働いている寺男は若者の父。臨安を舞台に作られたこの話は、北宋滅亡が多くの人生を変えたこと、かれらが流れ込んだ都市で懸命に生きていたことを伝える。日本にも伝わって人気を博したこの話から、ついに吉原の高級遊女をかの女の名にちなんで花魁(おいらん)と呼ぶようになる。臨安には華やかな帝都として歴史に姿を表したが、そのかげにはこのような話も少なくなかったのだ。<伊原弘『宋と中央ユーラシア』世界の歴史7 1997 中央公論新社 p.136-137>吉原の高級遊女を「おいらん」というのは花街の隠語だったようですが江戸末期から一般にも広がった。その宛て字にいつのまにか「花魁」の文字が使われるようになった。なぜ「おいらん」を「花魁」と書くのだろうと思っていましたが、花魁は臨安の哀れな遊女の名前だったのですね。
なお、江戸で高級遊女である女郎を「おいらん」と呼ぶのは、諸説あるようですが、一番妥当だと思われる説が、妹女郎が姉女郎のことを第三者に言う時、「おいらの姉女郎」と言い、その「おいらの」が「おいらん」になった<杉浦日向子『江戸へようこそ』1989 ちくま文庫 p.20>、というものです。その当て字に「花魁」という中国、臨安の遊女の名が使われたわけです。
元代の杭州 キンサイ
臨安府は1276年に元軍によって占領され、南宋は滅亡する。元代にはこの地はもとの杭州と言われるようになり、都としての地位は失ったが、浙江省の省都として繁栄を続け、豊かな経済力を背景に大都市として発展を続け、広州、泉州などと並んで外国貿易の拠点ともなった。モンゴル軍の杭州占領 1276年、南宋の首都杭州は、バヤンの率いるモンゴル軍に無血開城した。杭州城内外には約40万の南宋軍があったが、南宋政府は無条件降伏を決定し、抵抗しなかった。一部の下級兵士が、失職を恐れて政府に対する暴動を起こしたが、南宋政府軍幹部によって抑えられ、その一部が南宋帝室の幼子二人を伴って脱出し、再起を期して南に向かった。フビライの厳命によってモンゴル軍は厳しく統制され、略奪行為などは起こらなかった。中華文明の花咲く杭州が、蛮族モンゴルに蹂躙された、というのは間違った先入観であり、実際には杭州はモンゴル人支配のもとで商業都市としてさらに繁栄している。<杉山正明『クビライの挑戦』1995 講談社学術文庫版 p.25->
マルコ=ポーロの滞在
元の フビライの宮廷に仕えた、ヴェネツィア出身の商人マルコ=ポーロも杭州に滞在し、世界最大の都市と賞賛している。その著作『東方見聞録(世界の記述)』ではキンサイと書かれているのは、杭州が南宋の都(臨安)となったが、公式には一時的な皇帝の滞在地、つまり行在所(あんざいしょ)といわれていたためであり、「あんざい」を西洋人がカンザイまたはキンザイ、キンサイと伝えたのである。参考 マルコポーロの伝える“キンサイ”の繁栄
マルコ=ポーロは「そもそもこのキンサイ市というのは、まちがいもなく世界第一の豪華・富裕な都市だから、全くもって話しがいがあるというものである。」と述べた上で、かなりくわしくキンサイつまり杭州について書かれている。それによれば、城内には広い街路と運河がはしり、広場がいたるところにある。運河・水路にはたくさんの橋が架かる。一週間に三度、どの街区でも市場が立ち、あらゆる獣肉、魚などが集まってくる。(引用)主要十街区では、どこも高楼が櫛比している。高楼の階下は店舗になっていて、そこでは各種の手芸工作が営まれたり、あるいは香料・真珠・宝石など各種の商品が売られている。米と香料で醸造した酒のみを専門に売る店もある。この種の高級店舗では品物が常に新鮮でかつ安価である。<マルコ=ポーロ/愛宕松男訳注『東方見聞録』下 東洋文庫 p.63>このほかに、たくさんの街娼がいて豪奢な暮らしをしているとか、医師や占星師の街などがあったことなど、興味深い情報を伝えている。また、キンサイの市民については次のような観察をしている。
(引用)きっすいのキンサイ市民は、平和を愛好する歴代君主の教化をこうむって、その人となりがきわめて温和である。彼らは武器を扱うこともできないし、これを収蔵することもしない。彼らが互いに口げんかをしたり激論するのを目撃し、もしくは伝聞することもまずないことである。彼らは正直誠実で、もっぱら商取り引きにはげみ手工業に精を出す。男も女も善意のありったけを尽くして、誰とでも隣人のように親愛し合うから、市内の全域がまるで一家族ででもあるかのような観を呈している。・・・<同上書 p.70>
明代の杭州
明代にはいると、杭州は、江蘇省の蘇州と共に絹織物の産地として繁栄するようになった。養蚕業が産業の主体となったため、作物は穀物から桑に変わり、周辺農村は桑畑に転換した。その結果、穀物生産は長江中流の湖北・湖南に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった。世界遺産 杭州西湖の文化的景観
杭州の西に広がる西湖(さいこ)は唐代から多くの詩人・文人にその魅力を知られ、多くの寺院、仏塔、庭園が作られ、土堤道や人工の島とともに美しい景観を成り立たせている。自然と文化が融合した中国を代表する景観として、2011年に世界遺産に登録された。 → ユネスコ世界遺産センター West Lake Cultural Landscape of Hangzhou