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南宋

1127年、靖康の変で北宋が滅んだ後、江南で再建された王朝。都は臨安。江南の開発を進め経済が発展した。元のフビライによって1276年に実質的に滅亡した。

金・南宋・西夏

金・南宋・西夏

 1127年靖康の変で滅亡した宋(北宋)の皇族の一人高宗が宋を再建した王朝で北朝と区別して南宋という。1138年からは臨安(杭州)を都とし、1279年まで中国の南半分、江南地方を支配した。も江南地方までは侵入してこなかったので、臨安を中心にした南宋は漢文化の伝統を持ちながら、さらに高度な経済力を成長させ、繁栄する。南宋では、華北を支配する金に対して、和平論を主張する秦檜と、主戦論を説く岳飛の二陣営が対立し激しい政争となった。高宗は和平論を採り、1142年、金に対して多大な貢納を約束し和平を実現(紹興の和)、淮河を国境として両国は対峙することとなった。

経済・外交・文化の展開

 和平を実現した後、南宋は江南の開発に努め、囲田圩田などで耕地を広げ、占城稲の伝来によって農業生産力が高まり、米の他にも茶(中国)甘蔗(サトウキビ)などの農作物の栽培が広がった。このような農業生産力の向上は、他産業の成長を促し、景徳鎮の陶磁器をはじめ、絹織物、製紙業、木版印刷などが盛んになった。紙幣として会子も流通するようになり、遠隔地との取引も盛んになった。陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われた。その都臨安は世界的な大都市として発展した。日本の平清盛、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を行い、宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わった。また南宋で発達した朱子学は、日本でも受容され、宋学と言われた。

南宋の滅亡

 しかし13世紀にはモンゴル帝国が強大となり、特に1234年にモンゴル軍によってが滅ぼされると直接モンゴル軍と相対することとなってその圧力が強まった。アリクブケとの抗争と華北漢人軍閥の反乱というモンゴル帝国の内紛を収めたフビライ=ハンは、1267年から大規模な南宋征服に着手した。フビライ=ハンは南宋を最も困難な敵と考えていたので、攻略に当たっては従来のモンゴル騎兵中心の戦術ではなく、騎兵は少数に留め、漢人の歩兵部隊を動員して主力とした。それは「蒙古・漢軍」と言われた。また、必要な財源をムスリム系やネストリウス派信者の経済官僚に捻出させた。また、戦術としては長期戦を覚悟して、漢水(長江支流)の襄陽攻撃に見られるように、周囲に環城という土塁を築いて包囲して食糧の尽きるのを待ち、耐えきれずに守備側が出撃してくると火砲や火器で応戦した。一方でフビライ=ハンは金との戦争の中から海軍の必要性を認識し、1万5千隻、7万人の水軍を組織した。6年に及ぶ包囲戦で襄陽を陥落させ、その後は元軍は陸上と長江の水上を東進し、流域の都市が次々と開城、1276年に南宋の都臨安府は無抵抗で降伏し、恭宗は降伏し南宋は滅亡した。南宋の滅亡を1279年とするのは、生き残った残党が広州湾内の崖山で全滅した年であり、実質的には臨安開城で南宋は滅んでいる。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.88-102> → 回回砲

参考 南宋の滅亡年

 南宋の滅亡年は、山川詳説世界史では1276年となっている。同社の世界史B用語集では旧版では1279年として、「1276年とする説もある」となっているが、現行版では教科書と同じく1276年に滅亡し、「幼帝を奉じて抗戦していた宋軍も79年に壊滅した」としている。1276年は元が臨安を占領し、皇帝が降服した年であり、実質的に滅亡した年と言うことが出来る。この時、皇帝の一族の子供を皇帝に仕立てて臨安を脱出した一部の官人が、南方海上に逃れ、最後に杭州の南の厓山に立てこもり、元に対する抵抗を続けた。1279年は元の討伐軍が海陸から厓山を攻撃し、この厓山の戦いで南宋の残党は敗れ、幼帝も最後に入水して完全に滅亡した年である。実質的な滅亡と、形式的な滅亡にズレがあることはよくあることで、どちらが正しいと言うことではない。この場合も学説の違いではないので、1276年は実質的な意味の滅亡の年、1279年は「元が中国を統一した年」とすることでよいと思われる。

Episode 文天祥、捕虜となる

 元軍が南下して臨安に迫ると、南宋の抗戦派の大臣だった文天祥は軍隊を組織して抵抗した。臨安が陥落してからも頑強に戦い続けたが、広東省海豊の北の五坡嶺で昼飯を食べているときに元軍の捕虜となってしまった。並はずれた才気を持ち、科挙に一番で及第(状元という)し、文才もあった文天祥は、転戦する中で『零丁洋を過ぐ』という詩を書いた。その一節に「人生古より誰か死無からん、丹心(まごころ)を留取して汗青を照らさん」と述べた。汗青とは、昔の竹簡に文章を書くには、まず青竹の切れ端をあぶらなければならなかったが、そのとき水分が汗のように出てくるところから、歴史書のことをさしている。つまり、「死は誰にでもやってくる、まごころを歴史に残そう」という意味である。<『中国中学校の歴史教科書』2001 明石書店 p.463,469>
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