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メディナ(ヤスリブ)

メッカ北方のオアシス都市で、ムハンマドが622年にメッカからこの地に移り(聖遷)、最初の布教の拠点としたところ。ヤスリブが本来の地名だが、後に「預言者の町」の意味のメディナと云われるようになった。正統カリフ時代には政治的中心地でもあり、ムハンマドの墓があるのでメッカと並ぶ聖地の一つされるようになった。

メッカとメディナ  Google Map

 アラビア半島の紅海に面したヒジャーズ地方のメッカの北方約350キロにあるオアシス都市。マディーナとも表記する(なお、アラビア語でマディーナとは、普通名詞の「都市」の意味でもある)。この地ははじめ、ヤスリブというユダヤ人が住む小さなオアシス農村だった。その地の何人かメッカ巡礼のときにムハンマドの教えに感服し、メッカで迫害されていたムハンマドを迎えて、その教団の最初の根拠地とした。622年のことで、後にこのことをイスラーム教ではヒジュラ(聖遷)といい、イスラーム教の出発点とされ、イスラーム暦紀元元年とした。

「予言者の町」

 ムハンマドは、ヤスリブに入ると、随ってきた信者の共同体ウンマを組織した。以後、この町はムハンマドに因んで「預言者の町」を意味する「マディーナ・アンナビー」、略して「アルマディーナ」(メディナ)と呼ばれるようになった。
 その後も正統カリフ時代のイスラームの政治上の要地であり、現在もメッカにつぐ聖地とされている。その中心には、ムハンマドの住居跡に立てられた最初のモスク「預言者のモスク」(現在の建物は1853年に造営されたもの)とムハンマドの墓があり、巡礼ではメッカの次に信者が参詣するところとされている。

メディナ憲章

 ムハンマドはメディナでイスラーム教徒となったアラブ人と、ユダヤ教徒であるユダヤ人との間の条約である「メディナ憲章」を結んだ。その骨子は次のようなものである。
  1. メッカからの移住者とメディナの改宗者は一つの共同体(ウンマ)を形成する。
  2. 信者の間の紛争は神とムハンマドの調停に委ねる。
  3. ユダヤ教徒は、利敵行為がないかぎり、ウンマとの共存が許される。
(引用)血縁にもとづく組織づくりが常識であった時代に、信仰を絆にして共同体を建設するという思想は、やはり画期的であったといわなければならない。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.58>

マムルーク朝とオスマン帝国の保護

 661年にウマイヤ朝が成立すると政治の中心はダマスクスに移り、さらに750年のアッバース朝からはバグダードがイスラーム世界の中心として重きをなすようになったが、メディナはメッカとともに二聖都として重要視され続けた。カイロを都としたファーティマ朝が973/4年にヒジャーズ地方に進出、この二聖都を支配下におき、その後、アイユーブ朝、マムルーク朝というカイロを都としたイスラーム王朝の保護を受けた。マムルーク朝が1517年にオスマン帝国のセリム1世に滅ぼされてからは、メッカとともにオスマン帝国の保護下に入った。