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イスラーム教

アラビアで7世紀の初め、ムハンマド(マホメット)が創始した一神教で、強大な宗教国家を建設し、世界宗教に発展した。

 イスラーム教は、「神(アッラー)は唯一にして、ムハンマドはその使徒である」ということを信じ、ムハンマドのことば(『コーラン』)を神の言葉と認める宗教である。7世紀の初め、アラビアでイスラーム教が成立し西アジアに急速に広がった。「イスラーム」(またはイスラム)とは、その言葉だけで神への絶対的な帰依、服従を意味するので、「教」をつける必要はないが、一般にその宗教体系を「イスラーム教」と言っている。以前は「イスラム」と表記されたが、最近はなるべく原発音に近い表記にしようというので「イスラーム」とされることが多くなった。別な言い方では、「マホメット教」とか「回教(かいきょう)」、「回回教(フイフイ教)」などとも言われるが、マホメットはムハンマドのことで、イスラーム教では個人崇拝はしないので誤った言い方である。また回教は中央アジアに住むウィグル民族を中国で「回紇」の文字を当て、彼らがイスラーム教徒であったので、13世紀ごろからイスラーム教を意味する語を回教というようになったものであるが、これもイスラーム教を特定の民族と結びつけるのは誤っている。 → イスラーム教の特徴 キリスト教仏教ヒンドゥー教

世界宗教としてのイスラーム教

 イスラームは当初はアラブ人の信仰であったが、ムハンマドの貧富や民族を超えた人間の神の前での平等を説く教えはまたたくまにアラブ人の枠を超えて広がり、ムスリム=神に身を捧げた者、といわれるその信者は西アジアを中心に世界に広がり、仏教キリスト教とともに三大世界宗教とされるに至った。その世界宗教としての優れた普遍性と明快さが西アジアの多数の民族、とくにイラン人、トルコ人に広がって、現在に至るまで世界史の大きな軸の一つとなっている。ムハンマドの死後はその教えは代々のカリフに継承され、その間も拡大を続け、アフリカ内陸部、中央アジア、インド、東南アジアに広がっていく。その間、正統性と教義をめぐって分裂が始まり、現在のイスラーム教はいくつかの宗派に分かれているが、世界全体で約12億人の信者がいるとされている。キリスト教徒は約20億、ヒンドゥー教徒(インドの民族宗教)が8.2億、仏教徒が3.6億なので、イスラーム教は第2位の信者数を持っているといえる。その主な分布は、西アジア・中央アジア・アフリカ・東南アジアであるが、最近はその地域から移住した人々が増加したため、アメリカやヨーロッパでのイスラーム教徒数が急増している。

イスラーム教の成立

 メッカにおいて、ムハンマドが啓示を受けてアッラーへの信仰を説き始めたのはキリスト教紀元(西暦)で言えば610年であったが、当初はメッカの大商人たちから迫害され、北方のメディナに移って教団を建設したのが622年であり、イスラーム教ではこのことをヒジュラ(聖遷)といい、この年をイスラーム紀元元年としている。この時、ムハンマドが建設した信者(ムスリムという)の共同体であるウンマが組織されたので、これがイスラーム教団の成立とされている。
 メディナで教団を結成したムハンマドは、メッカのクライシュ族との戦いをジハード(聖戦)と位置づけて信徒に結束を呼びかけ、630年メッカ征服に成功し、メッカのカーバ神殿の偶像を破壊した。こうして多神教や偶像崇拝を否定し、唯一神アッラーへの絶対服従(このことをイスラームという)を説くイスラーム教の本格的な布教を開始した。
 632年のムハンマドの死後は、後継者のカリフにその権威は継承され、カリフのもとでジハード(聖戦)が展開されて教団が拡大していった。ムハンマド自身には著作はなく、その教えはその行いや言葉がカリフを中心とした教徒によって暗誦されて伝えられ、徐々にまとめられながら、644年、第3代のカリフウスマーンの時に、現在見るコーラン(クルアーン)として編纂された。

イスラーム国家の成立

ムハンマドの時代 西暦622年にムハンマドがメディナに移り(ヒジュラ(聖遷))、ウンマ(信者の共同体)が成立したことが、政治と宗教を一体化させた政教一致のイスラーム国家の始まりであった。630年にムハンマドがメッカを征服し、アラブ人世界での覇権を握った。しかしムハンマドは聖遷からわずか10年後の632年に死去した。
正統カリフ時代 後継者のカリフの4代を正統カリフ時代(632~661年)とする。初代アブー=バクルはムハンマドの死で動揺したアラビア半島の遊牧諸部族を再び統合して、アラブ人諸部族はイスラームに改宗してアラビア半島の統一が完成した。同時にビザンツ帝国・ササン朝ペルシアの二大旧勢力との対立は激しくなり、第2代のウマルシリアエジプトビザンツ帝国から奪い、さらに642年にはニハーヴァンドの戦いササン朝ペルシアを破ってイラン高原に進出、西アジアに勢力を拡大した。こように、この時期は積極的な異教徒とのジハード(聖戦)を展開、西アジア全域をその支配下に治めたが、この間、メディナは第3代正統カリフのウスマーンまで首都とされたていた。
ウマイヤ朝時代 正統カリフ時代の領土拡張の陰には、カリフの地位をめぐる激しい対立があった。いくつかの内戦を経て661年からカリフの地位がウマイヤ家によって世襲されるようになってウマイヤ朝が成立、政治の中心はシリアのダマスクスに移った。
 ウマイヤ朝のカリフはその正当性を主張するためにも、盛んに征服戦争を行い、西方ではビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを攻撃し、さらには北アフリカからイベリア半島に進出、フランク王国とも戦った。東方では中央アジア、インダス川流域まで勢力を伸ばした。その結果、ウマイヤ朝は多くのアラブ人以外の民族を支配し、彼らがイスラーム教以外の異教徒として留まることを人頭税(ジズヤ)を収めることを条件にその保護民(ズィンミーという)となることを許した。しかし、非アラブ人で本来イスラーム教に改宗してムスリムになったマワーリーといわれる人々はジズヤは免除されることになっていたのに、ウマイヤ朝は征服戦争のために財政が苦しくなると、マワーリーからもジズヤを課税するようになった。
 ウマイヤ朝では支配者としてのアラブ人=イスラーム教徒の優位は明確になったので、この段階をアラブ帝国として次の時代と区別することが多い。しかし、非アラブ人は税制の上でも不利な状態におかれたので次第に不満が高まっていった。同時にカリフの継承問題からイスラームの正統派としてのスンナ派(スンニー派)に対して非主流のシーア派が形成されるなど、矛盾が拡大していった。
アッバース朝時代 ウマイヤ朝の矛盾を背景にして750年アッバース朝が成立した。アッバース朝ではイスラーム国家はアラブ人だけではなく、イラン人やトルコ人を受け入れ、アラブ人の民族国家から西アジア全域を支配する世界帝国へと移行したとえる。
 その都バグダードはイスラーム圏最大の都市となったが、それはアラブ人の遊牧生活の舞台であったアラビア半島の砂漠ではなく、豊かなメソポタミアの農耕地帯の中心に位置している。イスラーム世界の重心がダマスクスから東方のバグダードへ移り、その拡張の方向も西の地中海方面より、中央アジアやインド方面に向かうこととなる。一般に、アッバース朝以降をイスラーム帝国として説明することが多い。

イスラーム教の特徴

 イスラーム教の特徴の主なものは次の4点にまとめることができる。
  1. 厳格な一神教であること。「アッラーの他に神は無し!」。一神教であることはユダヤ教・キリスト教と共通するが、キリスト教(ローマ=カトリック教会)がイエスを神と一体として崇拝するのに対し、イスラームではムハンマドは崇拝の対象ではなく預言者にすぎない。
  2. 偶像崇拝の否定。アッラーの像やムハンマドの肖像は絶対に作られない。キリスト教その他の異教徒の聖像や神像の崇拝を激しく攻撃する。そのため、イスラーム文明では彫刻や絵画は発達しなかった。
  3. 政教一致であること。アッラーへの信仰によって結ばれる信者集団がすなわち国家である、とする。宗教的指導者カリフが、同時に政治上の権力者であるという体制が続く。オスマン帝国ではカリフとは別にスルタンが統治するようになったが、現代ではイスラーム原理主義の復興によりイランなどでは宗教指導者の政治的発言力が強くなっている。
  4. コーランにもとづく信仰(六信)と厳格な生活規範(五行)の遵守義務。社会生活はコーランとハディースに基づくイスラーム法=シャリーアによって営まれる。飲酒の否定や、一夫多妻制の容認など、西洋キリスト教社会とは異質な規範が多く、しばしば文化摩擦となっている。
 その他、イスラーム教では聖職者を置かないことも特徴の一つに加えることが出来る。キリスト教における神父や牧師と言われる聖職者、仏教における僧侶(出家者)に相当する存在はイスラーム教では否定されている。コーラン(ムハンマドの言行録)やハディース(ムハンマドの伝承)をもとにイスラーム法(シャリーア)を研究するイスラーム法学者(ウラマー)の権威が高く、モスクやマドラサで宗教指導者として信者を導くが、神の代理人としての聖職者ではない。

Episode 日本人イスラーム教徒第1号

 日本人でイスラーム教徒となる人は少ないが、第1号は1902年の山田寅次郎さんと言われている。1890年にトルコのスルタンであるアブデュルハミト2世が日本に派遣した使節の乗った軍艦が、帰途台風のため南紀沖で沈没し乗員609人中540人の死者を出すという事件があった。山田寅次郎は遭難者や遺族のために義捐金を募り、1892年に単身トルコに赴きそれを献上した。異例の歓迎の中で数年滞在して帰国するが、その後何度か両国を往復し、両国の友好につくした。1902年、スルタン自らの勧めでイスラーム教に入信し、アブドゥル=ハリールというムスリム名を授かったという。<この項、中村廣治郎『イスラム教入門』1998 岩波新書 p.13>
 なお、オスマン=トルコ帝国のアブデュルハミト2世は、1908年に青年トルコ革命が起こり、翌年、退位させられる。
 また、日本人で最初にメッカ巡礼者となったのは陸軍の通訳官だった山岡光太郎で、彼は1909(明治42)年にメッカ巡礼を果たし、その巡礼記『世界の秘境アラビア縦断記』を刊行した。<同上 p.15>
 山岡光太郎のメッカ巡礼コースを題材とした問題が2007年のセンターテスト「世界史B」で出題されている。

イスラーム教の拡張・変質

 イスラーム教の国家が急速に拡大していった過程については、次の各項を参照。
 ムスリム商人の活動 シリアへの進出 エジプトのイスラーム化 イスラームの西方征服(マグリブのイスラーム化) トルコ人のイスラーム化 イラン人のイスラーム化 イスラームのインド侵入 東南アジアのイスラーム化 イスラームのヨーロッパ侵入 イスラームのビザンツ帝国侵攻 神秘主義/スーフィズム インドのイスラーム教徒 イスラーム改革運動 ワッハーブ派 イスラーム原理主義
急激な拡大の理由  7世紀初めに成立したイスラーム教が、半世紀もたたないうちに西アジアに広がり、さらに周辺の世界に伸張していったのはなぜだろうか。その問題を考える際には、イスラーム教を受け入れた側の状況も視野に入れておく必要があるだろう。次のような簡潔な意見が参考になる。
(引用)彼らは636年にビザンツの軍隊を撃破し、やがてエジプトや小アジアの疲弊した国々の支配権も握った。彼らの新しい宗教思想は、ビザンツの抑圧的なキリスト教や、神秘主義的なゾロアスター教の間で身動きが取れなくなっていた民衆から熱狂的に迎えられたに違いない。そこには、まったくシンプルな信仰があった。人間と神を隔てる障害物の役目をする聖職者もいなければ神殿もなく、その前ではすべての民族や階層が平等である。たったひとりの本当の神への信仰があるだけだった。<クリス・ブレイジャ『世界史の瞬間』2004 青土社 p.72>
「コーランか剣か」は大きな誤解  行ったアラブ=ムスリム軍の征服活動の圧倒的な勝利の背景には、彼らの士気の高さとともに、ササン朝ペルシアやビザンツ帝国の統治の弱体化と民衆の離反などさまざまな理由が考えられる。しかし、何よりもアラブの征服軍がイスラーム信仰によって統制された、規律ある軍隊であったことが重要である。
 一般にアラブの征服軍は「コーランか剣か」の二者択一を迫り、イスラーム教を受け入れなければ容赦なく剣にかけて征服したとされているが、これはイスラーム軍の圧倒的な強さにおびえた現地のキリスト教との誤解がそのまま後世に伝えられたに過ぎない。実際にはアラブの征服には、(1)イスラームに改宗するか、(2)人頭税(ジズヤ)を納めて従来の信仰を保持するか、(3)これらを拒否してあくまで戦うか、の三通りがあった。アラブ軍は征服地のキリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」(ムハンマドと同じく預言者にる神の啓示を信ずる民の意味)と認識し、人頭税の支払いを条件にその信仰を認めていた。<佐藤次高『イスラーム世界の興隆』世界の歴史8 1997 p.80>

参考 イスラームの「帝国化」

 イスラームが急速に拡張して「世界帝国」となった理由を、信者たちの飽くなき信仰心と異教徒に対するジハードの結果としてしか見ないのは誤っている。ムハンマドと初代カリフ、アブー=バクルの時代のアラビア半島統一までは、遊牧民の多神教信仰を正しい宗教に導こうという宗教的動機が原動力であったが、それによってアラブ諸部族が統合され、巨大な交易圏が成立すると、イスラーム自身が国家主権を持たざるをえなくなり、同時にそれはビザンツ帝国・ササン朝ペルシアという西アジアの旧二大勢力の利害と対立せざるを得なくなった。第二代カリフのウマルジハードはその旧勢力にたいしての自己の存在をかけての戦いであった。それは圧倒的な勝利をおさめたわけであるが、同時にアラブ社会に多くの異民族を包括することとなり、もはやメディナやメッカといった都市を統治するだけではなく、広大な領域を支配する帝国に転換していった。その帝国はカリフを政治的・宗教的指導者として仰ぎ、イスラームという一神教信仰にもとづくシャリーア(法)を普遍的な価値として統合される国家であった。同時に忘れてはならないことは、帝国を支えたイスラーム社会はけして排他的ではなく、異教徒や弱者をジンミー(庇護民)として包摂する寛大な社会であり、ワクフという寄付で社会資本が維持され、利子を取ることを禁止するなどの自制的な経済活動を理念とする社会であったことである。

イスラーム教の分裂

 正統カリフ時代以来、イスラームは教義やカリフの地位を巡って対立が生じ、ハーシム家のアリーウマイヤ家のムアーウィヤが争ったとき、アリーが安易に和睦したことに反対した人々はハワーリジュ派として分離し、最初の分派となった。661年、アリーはこの派の刺客によって暗殺された。
スンナ派とシーア派次にムアーウィヤがカリフとなってウマイヤ朝が始まったが、第4代カリフのアリーの子孫のみを正当な指導者(イマーム)と信じるシーア派(少数派)が分離し、カリフを中心とした秩序を支持する多数派は、スンナ派といわれるようになり、イスラーム教は分裂した。さらにシーア派はイマームの後継者を巡って主流派である十二イマーム派イスマーイール派などに分かれていく。

イスラーム神秘主義

 イスラーム教が西アジアに定着していく一方、ムハンマドやその弟子たちが生きていた時代から遠くなるに随い、信仰のあり方や日常生活の規範として『コーラン』や『ハディース』に基づくことが強調され、その解釈を行うイスラーム法学者であるウラマーの権威が強まっていった。ウラマーの教えは形式的なイスラーム法の遵守を主張するの律法主義に陥っていった。それに対して、日常生活と自我の意識から脱却して神への絶対的な服従の道を実践する少数の修道者が生まれ、彼らはスーフィーと言われ、その運動は総じて神秘主義(スーフィズム)ととらえられている。
 10世紀頃までに各地にスーフィーを聖者としてあがめる神秘主義教団が形成されていったが、彼らは民衆の現実的な要求に応じながら神との一体感を得るというわかりやすい教えによって広く民衆に受け入れられていった。またムスリム商人の活動と結びついて、西アジア以外のアフリカ内陸や南インド、東南アジアにイスラーム教が広がっていく上で重要な役割を果たした。
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書籍案内

中村廣治郎
『イスラム教入門』
1998  岩波新書

クリス・ブレイジャ
/伊藤茂訳
『世界史の瞬間』
2004 青土社

佐藤次高
『イスラーム世界の興隆』
世界の歴史 8
1997 中央公論新社

M.S.ゴードン/奥西俊介訳
『イスラム教』
1994 青土社

小杉泰
『イスラーム帝国とジハード』
講談社学術文庫 2016

カレン・アームストロング
小林朋則訳
『イスラームの歴史』
2017 中公新書

東長靖
『イスラームのとらえ方』
世界史リブレット15
1996 山川出版社