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ヒジュラ/聖遷

622年、ムハンマドが本拠をメッカからメディナに移したこと。聖遷。

 622年、ムハンマドがメッカのクライシュ族などの大商人から迫害を受け、メディナ(旧名ヤスリブ)に移った「聖遷」。イスラーム教では、の成立の年とされる。ムハンマドはこれを機に、メディナでイスラーム教団(ウンマ)を組織し、アラブ人統一の第一歩となったので、後のアラブの歴史家が、このことを聖遷の意味でヒジュラと名付けた。または聖行ともいう。またこの西暦622年7月16日をイスラーム紀元元年の1月1日として年月日を起算するイスラーム暦(ヒジュラ暦)が第2代カリフのウマルの時に正式に定められた。

イスラームの歴史始まる

(引用)しかし幸いなことにマホメットは、かつてパレスチナの荒野に叫んだイスラエルの預言者たちと同じく、宗教家であると同時にまた天成の政治家でもあった。窮地に陥った彼は前代未聞の大胆な手を思いついた。それは一時メッカの町を去って隣のメディナ市に遁れ、そこで異部族の間に同志を募ろうという考えである。今日の目から見れば、それくらいのことは大胆な行為でも無謀な行為でもないのだが、同じ血を分けた部族民に味方を求めるということは古アラビアの社会では絶対に考えられないことだ。神聖犯すべからざる「血のつながり」を断ち切るほどの驕傲を敢えてする無謀な人間はそれまでアラビア砂漠にはかつて出たことがなかった。クライシュ族は不意打ちをくらって呆然とした。やがてその驚愕は深い烈しい憤怒となった。囂々たる義憤慷慨の声がメッカの巷に巻き起こった。
 西暦622年の春、信徒たちは地位も財産もそっくりそこに残したまま懐かしい家をあとに、見知らぬ異郷に新しい運命を拓くべく出発した。そして数ヶ年後にはマホメット自身が無二の伴侶アブー・バクルとただ二人だけ、クライシュ族の血まなこの監視を危くすり抜けて先発の同志たちの跡を追った。二年がかりの、細心な、巧妙を極めた計画がついに成功したのだった。マホメットは凱旋将軍のごとく歓呼に迎えられながらメディナに入った。これをイスラームの史家は「遷行(ヒジュラ)」という。ヒジュラによってアラビアの無道時代は終り、歴史はイスラーム時代にはいる。従ってヒジュラからイスラーム暦の紀元は始まる。<井筒俊彦『マホメット』講談社学術文庫 p.99>
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井筒俊彦
『マホメット』
講談社学術文庫