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ウマル

正統カリフ時代のイスラーム教団第2代カリフ。聖戦を展開し勢力を拡大、シリア・エジプト・イランを征服した。638年にはイェルサレムに入り、キリスト教徒の信仰を保証するとともに、ウマルのモスクを築く。

 ウマル=イブン=ハッターブはイスラーム教教団の正統カリフ時代、第2代カリフ(在位634~644)。ウマルはオマルとも表記、ウマイヤ朝のウマル2世(在位717~720)と区別してウマル1世ともいう。正統カリフ初代アブー=バクルと同じくクライシュ族のアディー家出身で、はじめメッカでムハンマドを厳しく迫害したが、後に改悛してムスリムとなり、ムハンマドの教友の一人とされた。イスラーム国家の建設に尽くしたので、「イスラームのパウロ」といわれる(パウロは初めイエスに敵対し迫害していたが改心して使徒となった)。娘はムハンマドの妻の一人となる。

イスラーム帝国の拡大

 ウマルの時代はジハード(聖戦)が展開され、まずビザンツ帝国に支配されていたシリアに進出して、635年ダマスクスを包囲して降伏に追いこみ、次いで翌636年8月、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊12万を、4万の軍勢で攻撃し、兵員数で劣ったものの奇襲攻撃などでビザンツ軍を壊滅させ、シリアをイスラーム帝国に併合した。
 さらに637年にはカーディシーヤの戦いササン朝ペルシアに勝利し、その都クテシフォンを攻略した。翌638年イェルサレムが降伏すると、ウマルは無血入城し、ギリシア正教の総主教に対し、市民の保護を保証した(イェルサレムの和約、ウマル憲章とも言う)。その時、かつてのソロモン神殿のあったところは、ローマ時代の建物はしでもなくなり荒廃していたが、ウマルはその遺跡の中から巨岩を見つけ、そこがムハンマドの「昇天の旅」の出発地であるとして聖域に指定し、「ウマルのモスク」とよばれるようになった。この地には後のウマイヤ朝時代のカリフアブド=アルマリクによって岩のドームが建立されることになる。

Epidode ウマル、ソロモン神殿跡地のゴミを片付ける

 638年、イェルサレムはイスラーム軍に包囲され、ビザンツ帝国の代表でもあった総司教ソフロニウスは降伏を決意した。ウマルのイェルサレム(エルサレム)への入城は平和裡に行われ、キリスト教徒の住民のイスラーム教への改宗も強いられなかった。
(引用)ウマルはソフロニウスに聖地を見せてもらえないか、と頼んだ。まず訪れたのがイエスの墓のある聖墳墓教会である。教会内にいる間にイスラムが規定する祈りの時間になった。ソフロニウスはウマルに、その場で祈るように勧めたが、ウマルはそれを断って教会外に出て、階段の上で祈った。階段の先は通りになっており、買い物客でごった返していた。祈りのあと、ウマルは、もし自分が教会内で祈ったら、教会は接収され、モスクに替えられるだろうと説明したという。ウマルはさらに気を遣い、この階段での祈りをも禁じて、将来起こるかもしれないキリスト教との対立を未然に防いだ。・・・その後ウマルは、エルサレムの東端でソロモンの神殿があった場所に案内された。捕囚のあとで神殿が再建され、紀元前1世紀にはヘロデ王が大改修したものの、それもまた紀元70年にローマ軍に破壊された場所だ。エルサレムを占領したローマ帝国は、神殿の跡地に主神ユピテルの神殿を建設した。しかしローマ帝国がキリスト教化した後、この神殿も破壊された。そのあと(ユダヤ人が過去の栄華をしのぶ場所として使っていたのだが、キリスト教徒は嫌がらせでそこにゴミのを捨てたという。そのためウマルが訪れた時にはゴミの山になっていた。ウマルはゴミの山を拾って東側の谷に捨てた。同行したムスリムたちはそれにならい、ゴミだらけの神殿の丘がきれいになった。<笈川博一『物語エルサレムの歴史』p.120>

イスラーム帝国の拡大

 641年、ウマルはエジプトを征服、さらに再び東進して642年ニハーヴァンドの戦いササン朝ペルシアに勝利して、イラン高原に進出した。
 また広大な征服地を統治するため、徴税官を派遣し、アラブ戦士にはその税収入から一定の俸給(アター)を支払うこととし、またその業務のためにメディナに官庁(ディーワーン)を置いた。さらにイスラーム暦を定められたのもウマルの時である。
 またウマルの時代までにアラブの征服活動が進行し、多くの異教徒がその支配下に服することになった。抵抗した異教徒は武力で制圧していったが、その支配を受け容れた異教徒に対してはジズヤ(人頭税)の支払いなどの義務を果たすことを条件に、その信仰と一定の自治を与えた。特にユダヤ教徒やキリスト教徒などは「啓典の民」としてそのような保護民=ズィンミー(ジンミー)として処遇する制度が成立した。

ミスル(軍営都市)の建設

 ウマルはイスラーム勢力の拡大に努め、シリア、イラン、エジプトへと征服活動を展開していったが、同時に秩序の維持が大きな課題となっていった。ウマルが征服地を拡大してながら、どのように秩序を維持しようとしたか、次のような説明がある。
(引用)ウマルは、正しい規律を維持しようとの決意を固めていた。まず、アラブ軍人には勝利の成果を享受させなかった。征服地は、将軍に分け与えたりせず、それまでその地を耕してきた者たちにそもまま預け、ムスリム国家に地代を支払わせた。ムスリムは都市に移り住むのを許されなかった。その代わり、入植用に新たな、「軍営都市」(ミスル)を戦略上の要地に建設した。イラクのクーファバスラ、イランのコム、ナイル河畔のフスタートなどがそうだ。<カレン・アームストロング/小林朋則『イスラームの歴史』2017 中公新書 p.41>
 古い都市ではダマスクスだけがムスリムも住むことができ、征服地の中心となったが、それ以外にはムスリムの軍人は軍営都市のモスクで金曜礼拝を行った。ウマルは軍人たちにイスラームに則った生活を送るよう教え、家族の大切さを重視し飲酒を厳しく禁止し、質素に暮らすことを奨励した。この時点ではイスラームは基本的にアラブ人の宗教だった。しかし、この勝利の期間は突然終わりを告げた。
 644年11月、ウマルはメディナのモスクで、個人的な恨みを抱くペルシア人捕虜に刺されて死んだ。第三代カリフにはムハンマドの六人の教友によってウスマーンが選ばれたが、正統カリフ時代の末期は、暴力に満ちたものとなった。<カレン・アームストロング『同上書』 p.42>

Episode 「スンナ派の名前、殺害の的となる」

 ウマル(一般にはオマルと表記することが多い)は、アラブではありふれた名前であるが、2003年のイラク戦争勃発後、イラクではこの名前を改名する人が続出しているという。それは、スンナ派とシーア派の宗教対立が続くイラクで、シーア派民兵が「オマル(ウマル)」という名の人を次々と殺害するという事態が起こったためだ。シーア派は「抑圧者」としての第2代カリフのオマルと同名のものを殺害し、宗教的憎悪をかき立てている。スンナ派はイスラーム世界全体では多数派であるがイラクでは少数派であり、サダム=フセイン時代には権力を握っていたが、現在は形勢が逆転した。「スンナ派とシーア派の対立はイスラーム草創期の歴史までが憎悪をかりたてる手段に用いられ、抜き差しならない状況に陥っている。」<2006年4月14日 朝日新聞>