集史
イル=ハン国のラシード=アッディーンが編纂したモンゴル帝国の歴史。
イル=ハン国のガザン=ハンが、宰相のラシード=アッディーンに編纂させた、モンゴル帝国の歴史書。ガザン=ハンの次のオルジェイトゥの時、1310~11年に完成した。ペルシア語で書かれているが、モンゴル人の歴史を中心に世界の諸民族の歴史も集めたものであるので『集史』といわれる。モンゴル帝国の正史として第一級の史料であるとともに、モンゴル語、トルコ語、中国語の資料、伝承も採り入れて14世紀までを叙述した、最初の「世界史」でもある。また、イル=ハン国時代のイラン=イスラーム文明の遺産としても貴重である。
トプカプ宮殿 博物館の一角の図書館に所蔵されている。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 1996 講談社現代新書 p.8-15>
初めての「世界史」編纂の事情
チンギス=ハンによる建国からすでに90年が経過し、広大な世界帝国を形成したモンゴル人であったが、とくにフラグの大遠征によってイランの地にやってきて定着したイル=ハン国の支配者は、自分たちの歴史や、東方の元との関係などについてわからなくなり始めていた。そこでガザン=ハンは、モンゴル帝国の歴史を明らかにしてその自覚を高め、同時にフラグの子孫としての自己の支配の正当性を明らかにしようと考え、ラシード=アッディーンに歴史の編纂を命じるとともに、自らも口述させた。ラシードも宰相としての仕事の傍ら、手抜きをせず、「夜明けとともに筆を執り、時には移動の際の馬の背でも構想を練る」などの努力をしたという。ところが1304年、ガザン=ハンは激務の果て、34歳の若さで他界、弟のオルジェイトゥが即位した。ラシードはそれまで編纂したものを『ガザンの幸いなる歴史』として献上した。その頃、中央アジアではハイドゥの乱が鎮静化し、モンゴル世界は安定期を迎えた。そこでオルジェイトゥは改めてラシード=アッディーンに、今度はモンゴル人以外のユダヤ人、ペルシア人、ホラズム、イスラーム諸王朝、トルコ人、中国人、さらにインド、フランクなどの歴史を編纂することを命じた。こうして、モンゴルを中心とする世界を前提とし、周辺世界を含めた「世界の歴史」を、史上初めて体系化する試みがなされた。こうしてイスラーム暦710年(西暦1310~11年)、オルジェイトゥに捧げられた歴史書は、「諸史を集めたもの」の意味で『ジャーミー・アッタヴァーリーフ』すなわち『集史』と名づけられた。現在、その写本はイスタンブルの