フラグ/フレグ
モンゴル帝国の西アジア遠征を指揮し、1258年にバクダードを攻略してアッバース朝を滅ぼした。イランを中心に西アジアを支配し、1260年にイル=ハン国を樹立した。
モンゴル帝国のチンギス=ハンの末子トゥルイの子で、モンケ=ハンの弟。フレグと表記するのが正しいともされる。
ついで南下してメソポタミアに入り、1258年にバクダードを陥落させ、最後のカリフ・ムスタースィムを殺し、アッバース朝を滅ぼした。
フラグはフビライ=ハンを支持したので、フビライと対立していたチャガタイ=ハン国と対立することとなり、さらにイラン北方の肥沃なアゼルバイジャン地方をめぐって同じモンゴル帝国の分国であるキプチャク=ハン国と対立することとなった。1265年、キプチャク=ハン国との戦闘のさなかに急死した。
バクダード攻略 アッバース朝を滅ぼす
1253年から、モンケ=ハンの命令で西アジア遠征に出発。1256年に北部イランの山岳地帯に勢力を張っていたシーア派イスマーイール派の暗殺教団の本拠を攻略して滅ぼした。ついで南下してメソポタミアに入り、1258年にバクダードを陥落させ、最後のカリフ・ムスタースィムを殺し、アッバース朝を滅ぼした。
イル=ハン国を興す
しかし翌年、モンケ=ハンの死により、西アジアのシリア・エジプト攻略は部下のキトブカに任せ、カラコルム帰還をめざしたが、フビライの大ハーン即位の知らせを受け、1260年に自らはイランの西方のタブリーズを拠点にイル=ハン国(フラグ=ウルス)を建国し、イランの統治にあたることとした。フラグはフビライ=ハンを支持したので、フビライと対立していたチャガタイ=ハン国と対立することとなり、さらにイラン北方の肥沃なアゼルバイジャン地方をめぐって同じモンゴル帝国の分国であるキプチャク=ハン国と対立することとなった。1265年、キプチャク=ハン国との戦闘のさなかに急死した。
西アジア征服
モンゴル帝国のチンギス=ハンがホラズムを滅ぼし、中央アジアに勢力を伸ばしたが、アム川以南の西アジアにはモンゴル帝国に服従していない北部イランの山岳地帯に拠っていたシーア派イスマイール派の暗殺教団の勢力と、バグダードのスンナ派のアッバース朝の残存勢力があった。その先の地中海方面まで進出することを当初から考えていたかどうかはよくわからない。イル=ハン国で書かれたモンゴル帝国の正史『集史』では、フラグはモンケ=ハンからこの地にウルスを建設することを認められていた、と述べている。モンゴル軍とイスラーム軍の戦い
フラグは、部下のキトブカにシリア攻略を命じて東に向かった。1260年、キトブカは当時進められていた第6回十字軍と協力して、シリアの中心都市ダマスクスを占領することに成功した。さらに南下してマムルーク朝のエジプトに侵攻することを構想したが、同年、バイバルスとのアインジャールートの戦いで敗れ、シリアからエジプトへの進出はできなかった。Episode モンゴル=十字軍共同作戦
(引用)(フランス王)聖ルイが遠くアジアに謎のキリスト教君主の存在を求めて1253年にカラコルムに派遣したフランシスコ会士ルブルクは無事任務を果たして二年後に帰国したが、その直接の効果ではないにしでも1260年モンゴル=十字軍共同作戦がダマスクス占領の形をとっで実現したことは、ルイ九世の戦略眼を評価する一資料といえよう。モンゴル族の西征に一翼をになったフラグ・ハンは1258年バグダードを陥れて、五○○余年の伝統をもつアッバース朝を滅した後、北シリアに進出してアレッポを占領し、そこで十字軍と初めて接蝕した。1260年3月のダマスクス攻略戦には、フラグの部将で景教徒(ネストリウス派)のキトボガ(キチブハ、キドブカ、キドブハとも)、単性派キリスト教徒のアルメニア王へトウム一世と、アンチオキア侯ボヘモンド五世が同盟して勝利をあげ、宗派こそ違うが三人のキリスト教君主が肩をならべて凱旋したという〔J.R.ストレーヤー〕。このような局地的友好関係がどれほどの必然性をもって継続するか疑問であったが、翌年モンゴル軍は憲宗モンケ・ハンの訃報に接して兵をひいたので、十字軍との交流も杜絶した。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.199>注意 現在は、ルブルックはルイ9世に派遣されたのではなく、単独旅行だったと見られている。