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チンギス=ハン

モンゴル系部族を統合してモンゴル高原とその周辺を征服し、1206年にハン位に即位してモンゴル帝国を樹立した。さらに、金を攻撃、西夏、ホラズムに遠征、中央アジアに進出して大帝国の基礎をつくり、1227年に死去した。

 チンギス=ハン(幼名テムジン)は1162年、モンゴル部族のボルジギン氏の首長エスガイ(イェスゲイ)を父、ホエルンを母として生まれた。モンゴルの伝承に拠れば、その先祖は「蒼い狼」を父に、「白い牝鹿」を母に生まれたという(『元朝秘史』)。若くして父を失い、母に育てられる。タタール、ケレイトなどのモンゴル系の部族を次々に制圧し、1204年にはナイマン王国を討ってモンゴル高原を統一し、西域のウイグルを服属させた。

モンゴル帝国の創始

チンギス=ハン
チンギス=ハンの肖像
この図は後世のものである。
 1206年に全モンゴルの君主として、クリルタイ(部族長の大集会)でハン(カンとも表記する)に推戴されチンギス=ハン(チンギス=カン)と称することとなった。この即位によってモンゴル帝国が成立した。漢字では成吉思汗と書く。後に成立した王朝では太祖という称号を贈られている。
 チンギス=ハンは千戸制という強力な軍事・行政組織を作り上げ、「ヤサ」といわれる法令を制定して広大な国土を支配した。その子と孫の世代までに、モンゴル帝国は東は中国から、西は現在のロシア、イランにいたる大帝国を建設した。一代でその領土をモンゴル高原の東西に拡大し、ナイマン、ホラズムなどに遠征して従え、西夏遠征途中の1227年に死去した。後継のハンとなったのは第3子のオゴタイであった。

チンギス=ハンの征服活動

のまとめ
・対金戦争 1211年から東南のへの遠征を開始、1214年にはその都中都(燕京。現在の北京)を占領した。金は黄河を越えて南の開封に逃れた(第1次対金戦争)。
・西方遠征 1219~1225年 チンギス=ハンはモンゴル軍を派遣、1218年、トルキスタンに逃れていたナイマン王(西遼の王位を奪っていた)を滅ぼした。西遼に服属していた西ウイグル王国もモンゴル支配下に入り、ウイグル人はモンゴル帝国を支える官僚層となった。さらに1219年に大規模な西方遠征に出発、1220年マー=ワラー=アンナフル(アム川とシル川の間の土地)に入ってサマルカンドブハラなどを破壊し、当時中央アジアの強国であったホラズム=シャー国王は西方に逃れたが同年末に病死した。チンギス=ハンはアフガニスタンを南下してバルフ、バーミアンなど破壊、1222年にインダス河畔まで到達したところで引き返し、1225年に帰還した。ホラズムの王子はなおも抵抗を続けていたが、それも1231年にクルド人に殺害されて、滅亡した。またモンゴル軍の一隊はカフカス山脈を越えて南ロシアに侵入した。
・西夏遠征  チンギス=ハンは1227年にモンゴル高原の南に位置する黄河上流オルドス地方の西夏に遠征した。口実は西夏が西征軍への参加を拒んだことにあった。モンゴル軍は大軍で都の興慶を囲んだ。しかし陥落前にチンギス=ハンはさらに南方の六盤山に移り、そこで死んだ(下記参照)。

Episode チンギス=ハンの死

 1226年秋からの西夏への再出兵で、首都興慶に迫り、平凉付近に本陣を布いた。1227年夏、西夏国王が和を乞うてきたとき、チンギス=ハンは甘粛省六盤山中の清水県で狩猟中に落馬した傷が悪化して、1227年8月18日に死んだ。その死は秘密にされ、遺命により西夏国王とその一族、および興慶の住民はことごとく殺戮された。チンギス=ハンの遺骸は喪を秘してモンゴリアに移されたが、棺を守る兵は途中で遭遇した者を、すべて殺しながら進んだ。その理由は訃報を秘匿するためと、ハンの死後の生活に仕えさせるという迷信があったにちがいない。はじめて喪が公表されたのは遺骸がケルレン河の源に近い本営に到着した後である。遺骸は諸将のテントに順次安置され、一族諸將到着を待って、オノン・ケルレン・トラ三河の源ブルハン山中の一峰に埋葬された。林の民ウリャンハイ族の千戸がその地の守護を命じられ、外部の者は近づくことを許されなかった。チンギス=ハンとその後継者の墓の所在は今に至るまで、一つも発見されていない。モンゴル人などの北方遊牧民は墓を地下深く匿す習慣を持っていた。<岩村忍『元朝秘史』中公新書 P.187-9>

Episode チンギス=ハンの子どもたちの内紛

 チンギス=ハンには4人の息子がいた。長男ジョチ(ジュチとも表記)は金や西方遠征でも働きは抜群で優秀であったが、実はチンギス=ハンの実子ではない、という噂があり、ハンにはなれないだろうと言われていた。1227年に中央アジア遠征中に死んでいた。次男のチャガタイは気性が激しく、人望がなかった。三男がオゴタイ(オゴデイ)であるが、おとなしく特に取り柄のない人物と思われていた。4男のトゥルイは末っ子で父に最もかわいがられており、また優秀な実力者と思われていた。モンゴルには特に決まった相続法はなく、家督は実力主義、家産は末子が有利という傾向があったので、トゥルイが選出されることが予想されていたが、結果はオゴタイになった。モンゴル帝国の正史ではクリルタイの全会一致といい、トゥルイが継承する予定の家産をオゴタイに譲ったという、「麗しい国譲り」とされているが、実際はチャガタイがトゥルイに即位させないため、オゴタイを推した結果だろうという。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』上 講談社現代新書 p.27-58 などによる>
 → 3ハン国の形成
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書籍案内

『元朝秘史』上・下
小澤重男訳 岩波文庫
『元朝秘史―
チンギス・ハン実録』
岩村忍 中公新書

杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』上
講談社現代新書