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ハイドゥの乱

14世紀の初めモンゴル帝国で起こった内乱。オゴダイの孫のハイドゥがフビライに反旗を翻した。1269年ごろから戦闘を繰り返し、フビライの死後の1301年、決戦にハイドゥが戦死、残存勢力も1305年に降伏して終息した。

 1300~1305年、の大ハンに対して中央アジアを拠点とする一族のハイドゥが起こした反乱。モンゴル帝国の中で元は正式には大元ウルスといわれ、いわばその本家の位置をしめていたが、各地のモンゴル部族の中にはそれに反発するものもあった。そこで起こったのがこの反乱であり、ユーラシアにおけるモンゴル勢力を二分する大きな内乱となったが、元が勝利してその支配を安定させた。

反乱の経緯と結果

 モンゴル帝国第2代で、大ハーンのオゴタイの孫にあたるのがハイドゥ。カイドゥ、あるいはハイズとも表記。第4代モンケ=ハン以来、オゴタイ家は不遇だったので、不満を強くし、1269年にフビライに反旗を翻して戦闘がはじまった。1280年頃には中央アジアのマー=ワラー=アンナフルに独立政権をつくった。フビライは西方でのハイドゥとの戦いを続けながら、東方では南宋を滅ぼし、さらにベトナム、日本、ジャワなどへの遠征活動を続けた。
 1294年フビライの死去後、1300年から翌年にかけて、ハイドゥは大軍を率いモンゴル高原に侵攻し、元の第6代ハンのテムル(成宗)と戦ったが1301年に敗れてまもなく死去した。1305年にハイドゥの子のチャパルなどが元に降伏してハイドゥの乱は終結した。
 中央アジアのハイドゥの支配領域ではチャガタイ家の支配が復活してチャガタイ=ハン国が再興され、さらに西方のキプチャク=ハン国イル=ハン国とならび、モンゴル高原と中国本土を支配する元帝国を宗主国とした「タタールの平和」が実現した。

参考 ハイドゥの表記と反乱の時期

 ハイドゥは正しくはカイドゥとする説が有力。教科書でもカイドゥとするものも増えている。またその時期については、山川の世界史用語集Bではハイドゥの乱として1266~1301年としているが、その開始と終結の年代は概説書、辞書類でもまちまちである。その間の年代を整理すると次のようになる。
 ハイドゥはすでにモンゴル帝国の大ハーンの位をフビライアリクブケが争っていた間(1260~64年)に中央アジアのマー=ワラー=アンナフルで自立の動きを始め、1266年にはフビライの駐屯軍を襲撃して明確に反旗を翻した。1269年には、ハイドゥとチャガタイ=ウルス、ジョチ=ウルスの三者がマーワラーアンナフルの分割で合意、同盟が成立した。これは大カーンのフビライを無視した行為であるので、両者の対決はモンゴル帝国を二分する対立となった。このときハイドゥは大カーンに推戴されたとも言われるが、それは形式的なものにとどまったらしい。
 これ以降両者の対立は延々と続き、互いに敵の本拠を突こうと直接に軍を動かしたが、決着が付かないままに過ぎた。この間に、フビライは1271年に国号をに改め、1276年には南宋を滅ぼし、さらにベトナム、日本、ジャワなどへの遠征活動を展開したのだった。
 元とハイドゥとの戦いは、1294年にフビライが80歳で死去してもなお続いた。フビライの死を受けたハイドゥは、1300年に自ら大軍を率いて大都を目指したが、翌1301年、元軍に敗れ、彼自身もついに死去した。これをもってハイドゥの乱の終結とすることもできるが、反乱はハイドゥの子らによって続けられ、彼らが元の成宗に降伏してのが1305年であり、それが最終的な終息であった。1266年からを反乱開始とすれば、実に39年に及んだことになる。
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