ベルベル人
北アフリカのマグリブ地方のハム系と黒人の混血人種。イスラーム化する。11世紀のムラービト朝、12世紀のムワッヒド朝はイベリア半島にも進出した。その後もイスラーム国家の分立が続いてほとんどアラブ化し、16世紀にオスマン帝国領となる。
ベルベル人は、ヨーロッパではムーア人(またはモーロ人)と言われた。エジプトより西の北アフリカのマグリブ地方の住民。その起源は不明な点が多いが、純粋な黒人ではなく、かつては、もともとのハム系民族がネグロイドや西アジアのセム系民族と混血を重ねて形成された民族であると考えられ、ベルベル人の言語はハム語系と考えられていたが、最近の言語学ではハム語系の存在は否定されており、ベルベル人の言語系統についても再検討が迫られている。
同じベルベル人でもアトラス山系で暮らす農民とサハラ砂漠近くで遊牧を行っている人々とでは体型、風貌には大きな違いがある。7世紀以来のイスラーム教の浸透により、ベルベル人とアラブ人の同化が進んでいるが、アラビア語ではなくベルベル語を話し人々は現在でも数百万がモロッコを中心に存在しており、彼らの中にはアラブ人からの自立を主張する民族運動も存在している。
同じベルベル人でもアトラス山系で暮らす農民とサハラ砂漠近くで遊牧を行っている人々とでは体型、風貌には大きな違いがある。7世紀以来のイスラーム教の浸透により、ベルベル人とアラブ人の同化が進んでいるが、アラビア語ではなくベルベル語を話し人々は現在でも数百万がモロッコを中心に存在しており、彼らの中にはアラブ人からの自立を主張する民族運動も存在している。
イスラーム王朝の支配
7世紀以来、イスラーム教が浸透し、ウマイヤ朝・アッバース朝の支配を受けながらアラブ人との同化が進んだ。アッバース朝の支配が弱まると、8~9世紀にモロッコのイドリース朝、アルジェリアのルスタム朝、チュニジアのアグラブ朝などが自立したが、いずれもアラブ人が支配する国家であった。アグラブ朝は地中海沿岸に艦隊を送り、キリスト教世界を海上から圧迫した。ついで10世紀にチュニジアにシーア派国家のファーティマ朝が興ったが、ファーティマ朝は間もなく拠点をエジプトのカイロに移し、その後はマグリブにはベルベル人のイスラーム地方政権の分立が続いた。ベルベル人のイスラーム国家
11世紀に成立したムラービト朝はベルベル人を主体とした王朝であり、その勢力はイベリア半島にも及んだ。次のムワッヒド朝もベルベル人を統一した有力なイスラーム王朝であった。ムワッヒド朝衰退後は、再び分裂時代に入り、モロッコのマリーン朝、チュニジアのハフス朝のもとで西方イスラーム文化が繁栄した。しかし、イスラーム教が続いた結果、現在はベルベル人としての独自性はなく、ほとんどアラブ化している。ベルベルという名称
「マグレブからサハラ砂漠にかけての原住民は、ベルベル人と総称されることが多いが、これは民族名でも人種につけられた名称でもなく、かれら自身が自分たちを指すのに用いている呼び名でもない。「ベルベル」という呼称は、7世紀に東方から侵入してきたアラブ人が、マグレブの原住民を指すのに用いた「ベラベル」という言葉に由来しており、「ベラベル」は、ローマ人が、リーメス(境界)の彼方の住民を指した呼び名「バルバルス」をうけついだものである。「バルバルス」は、ギリシア語の「バルバロス」(バルバロイ)と同じく、意味の分からぬ言葉をしゃべる異人を野蛮人あつかいして呼んだ名称だった。だから、他に適当な総称がないままに、現在では軽蔑の意味は全くなしに、かれら自身も使ってはいるものの、「ベルベル」という呼び名はもとをただせば、あくまで外来者の側から与えられた、漠然とした総称にすぎないのである。」<川田順造『マグリブ紀行』1971 中公新書 p.93>