ムラービト朝
1056年、北アフリカのベルベル人が建国したイスラーム教国。マグリブのモロッコからサハラ南部のガーナ王国に遠征、さらにイベリア半島に侵出し、レコンキスタ運動と戦った。1147年、ムワッヒド朝に滅ぼされた。
北アフリカのマグリブ地方の西端にあたるモロッコ南部でベルベル人の間に興った厳格なスンナ派イスラーム信仰を掲げる信者(ムラービトゥーン)が1056年に建国した。アルモラヴィドともいう。彼らは自らの信仰に基づく異教徒や堕落したイスラーム教徒に対する聖戦を展開し、まずサハラ南部に遠征してガーナ王国を滅ぼし、ついでモロッコを征服して1070年頃には新都マラケシュを建設した。さらにイベリア半島を征服して大帝国を建設した。マグリブでは東部のシーア派国家ファーティマ朝と戦い、イベリアではキリスト教勢力のレコンキスタと戦い、一時その勢いを後退させた。しかし、遊牧ベルベル人がイベリアの都市生活を続けるうちに次第に戦闘意欲を失い、厳格な信仰も揺らいできたことから次第に弱体化し、1147年にムワッヒド朝によって滅ぼされた。
ムラービトゥーン
西サハラの遊牧ベルベル人サンハージャ族のヤフヤーは、1036年頃メッカ巡礼を行い、その帰途にスンナ派マーリク派の学者と知り合う。その一人イブン=ヤースィーンを伴って西サハラに戻り、セネガル川河口の小島に修道場(ラービタ)を設け、コーランとスンナに基づく厳格なイスラーム信仰を強めた。彼らは修道士という意味でムラービトゥーン、あるいは彼らはヴェールをつけていたのでムタラッスィーン(ヴェールをつけた人)と言われ、盛んに周辺部族に対するジハード(聖戦)を行うようになった。<佐藤次高編『西アフリカ史Ⅰ』世界各国史8 2002 山川出版社 p.224-225>聖者(マラブー)崇拝思想
文化人類学者のクリフォード=ギーアツは『二つのイスラーム社会』で、モロッコのイスラーム王朝の特徴として、血統思想と聖者崇拝思想の対立として分析し、モロッコ最初の王朝イドリース朝を血統思想に基づく王朝とし、それに代わって登場したムラービト朝を聖者崇拝思想によって実現した王朝として説明している。聖者(マラブー)とは何か、について彼は次のように説明する。(引用)「マラブーをあるフランス人はアラブ語のムラービト murabit に由来すると言っている。この言葉は、結ぶ、縛る、締める、貼り付ける、ひっかける、繋ぐ、などを意味する原型から派生したものである、というのだ。そうすると「ムラービト」という言葉は、柱に繋がれた駱駝や桟橋にもやわれた舟や壁を背に縛り付けられた罪人のように、神に結びつけられ縛りあげられ締めつけられている男ということになる。・・・この言葉は、さまざまの成層をなしてモロッコ史を貫く縦糸をなしている。英語ではアルモラヴィダ王朝 The Almoravids という名で知られているベルベル人帝国のなかでは、最初で最大の人物でありマラケシュの建設者、アンダルシアの征服者であったのは、事実は、アル・ムラーバーティン、すなわちマラブーたちであった。この国の首府ラバト Rabat は、「聖域」を意味する語形のリバトから転じたものである。さらにそれが続くと、最も確実な語義としては、神(または神とみなす他ないもの)に引き寄せられて身動きの出来ない、縛りあげられ、結びつけられてしまっている男たち、――おそらくは、神に掴みとられた男たち、と言えば一番いいだろうが――それがマラブー(=聖者)なのである。」<クリフォード=ギーアツ/林武訳『二つのイスラーム世界―モロッコとインドネシア―』1968 岩波新書 p.71-72>
サハラ南部への侵出
ムラービト朝は1053/54年にサハラ交易の拠点シジルマーサを征服、さらに南進を続けた。そのころ、サハラ南縁にはニジェール川上流域でガーナ王国がサハラの岩塩とアフリカ内陸の金の交易で栄えていたが、イスラーム化していなかった。ムラービト朝は聖戦(ジハード)と称して遠征軍を派遣し、1076/77年にそれを占領した。これを機にアフリカ内陸へのイスラーム教の浸透が本格化した。しかし、ムラービト朝は次第にその中心をマグレブからイベリア半島に移し、西サハラ・ガーナは放棄された。イベリア半島への侵出
1031年に後ウマイヤ朝が滅亡して以来、イベリア半島南部のアンダルス地方は弱小のイスラーム国家に分裂(ターイファ)し、キリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)に押され、1085年にはトレドがカスティーリャ=レオン王国アルフォンソ6世に奪われるという情勢となっていた。そのため、アンダルスのイスラーム教諸国は、ムラービト朝に応援を要請した。ムラービト朝スルタンのユースフは自ら軍を率いてジブラルタルを渡り、1086年のザグラハス(ザッカーラ)の戦いでアルフォンソ6世軍を破り、国土回復運動を一時後退させた。ムラービト朝の遠征は当初はキリスト教勢力に向けられたものであったが、次第にアンダルスのイスラーム教国に対しても、その堕落した都市生活に対する厳格なスンナ派神学の立場からの聖戦が展開され、11世紀末までにはイベリア半島の南半分(アンダルス)はムラービト朝の支配下に入った。ムラービト朝がマグリブとアンダルスを統一支配した時期は、東方でセルジューク朝が聖地イェルサレムを占領したのと同じ時期であり、東西でキリスト教世界が脅かされていたのであり、レコンキスタとともに十字軍運動が始まった背景となった。ムラービト朝とムワッヒド朝
ムラービト朝はスンナ派(の中のマーリク派)のコーランとスンナ(慣行)に忠実な信仰心(ということはバグダードのアッバース朝カリフを宗主として仰いだ)による一種の宗教運動として成立し、その征服活動も聖戦として行われた。それをささえたのは西サハラのベルベル人遊牧民の部族的結束であったが、その支配がアンダルス地方に及んで都市生活を行うようになると、次第に宗教的な情熱は失われていった。ムラービト朝の宗教と部族という結束原理が揺らいでいく中で、12世紀にはいるとモロッコのアトラス山中で新たなムワッヒド朝の宗教運動が生まれた。彼らはイスラーム神秘主義の影響を受け、従来の慣行にとらわれずに神との一体感をもとめ、シーア派に近い信仰を持ち、またベルベル人ではあるがアトラス山脈沿いの豊かな農地で定住農場に従事していた。このような、反スンナ派(ということはバグダードのカリフの権威を認めない)であること、基盤を定住ベルベル人に置いていること、と言う点でムラービト朝と異なるのがムワッヒド朝であった。1130年に成立したムワッヒド朝は、1145年にアルジェリアのトレムセンでムラービト軍を破り、さらに1147年に首都マラケシュを陥れた。これによってムラービト朝は滅亡した。