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アルフレッド大王

アルフレッド大王

アルフレッド大王の肖像を刻んだ貨幣

9世紀末、デーン人の侵攻を撃退したイングランド王。法典の制定、学問の保護なども行ってイングランド王国の基礎を築き、大王と言われる。

 イングランド王国の国王(在位871~899年)。アングロ=サクソン人の七王国の一つウェセックス王エグバートの孫。父はエゼルウルフ。父や兄たちはそのころ強まっていたデーン人ヴァイキングとも言われた)の侵攻と死闘を繰り返し、次々と倒れ、末子のアルフレッドが871年に即位した。デーン人は850年にブリテン島に定住を開始していたが、アルフレッドはサクソン人諸国をまとめることに成功し、デーン人との間で支配領域の協定を結んだ(878年)。その後もデーン人との衝突は続き、886年にはロンドンを奪回し、デーン人との戦闘に勝利した。
 アルフレッドはデーン人との間でイングランド北東部の統治権(デーンロー)を認める条約を結び、戦闘を終結させて、自らはイングランド南西部の支配権を保持した。これによってイングランド王国は滅亡を免れた。アルフレッドはまたラテン語の英訳などの学問の保護に熱心であったので、「イギリスのカール大帝」と言われ、「大王」と称された。 → イギリス(2) <右の写真は、指昭博『図説イギリスの歴史』2002 河出書房新社 p.14 より>

イギリス史上唯一の「大王」

 イギリス史において唯一「大王(グレート)」の渾名をもつアルフレッドは大男でもあったが、二つの点で前例のない明君とされる。その第一は『アングロサクソン年代記』と『アルフレッド伝』による、自身の治世の顕彰である。・・・この二つのプロパガンダ史料によれば、アルフレッドは勇猛果敢なだけではなく、異教徒ヴァイキングを改宗させる高貴な信心王であった。第二は学問と教育である。アングロサクソンの王も人民も読み書き能力はなかったが、アルフレッドは文字の力を十分に認識し、40歳にしてみずからラテン語を学んだ。また学校を設立して、臣下とその子に学習させた。<近藤和彦『イギリス史10講』2015 岩波新書 p.32>

アルフレッド法典の制定

 彼はデーン人との戦闘で荒廃した国土を回復させるため、法典と統治機構の整備に努めた。890年頃に制定された法典は、古代英語で書かれたものが現存しており、モーセの十戒を受け継ぐ戒律に基づくものであると表明し、人間同士の誓約も神聖にして厳格であることなどを強調している。また国王に対する謀反や主君に対する陰謀は重罪とされた。人体各部への暴行による傷害罪に対しては詳しく罰金の細目が明示されている。アルフレッド法典が施行され、領主と司教が訴訟と告訴を受け付けたが、アルフレッドは絶えず厳しい監視の眼を光らせ、数多くの争議で自ら審判した。

学芸の保護

 イングランドのカンタベリー大司教や修道院ではラテン語研究の水準が高く、フランク王国のカール大帝に招かれたアルクィンなどが活躍していたが、9世紀後半になるとデーン人の侵攻によって教会も荒らされ、文化も低迷した。アルフレッド大王自身、ラテン語を読むことができなかった。そこで国土回復の一環として文化の保護に力を入れ、ウェールズからラテン語学者アッサーを招いてラテン語を学ぶとともに、ラテン語聖書(ウルガタ聖書)の翻訳を共同で始めた。この聖書は現存しないが、アッサーが後に著したアルフレッド大王の伝記は残っている。その他、フランスなどからも聖職者を招き、聖書やラテン語文芸の研究普及、ラテン語典籍の英訳事業にあたらせ、自らもグレゴリウスやアウグスティヌスらの著作の翻訳をおこなった。<ダケット/小田卓爾訳『アルフレッド大王 -その生涯と歴史的背景』1977 新泉社 p.120->
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書籍案内

アッサー/小田卓爾訳
『アルフレッド大王伝』
1995 中公文庫
ダケット/小田卓也訳
『アルフレッド大王
―その生涯と歴史的背景』
1977 新泉社

高橋博
『アルフレッド大王
―英国知識人の原像』
朝日選書
1993 朝日新聞社