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アングロ=サクソン人/七王国(ヘプターキー)

ゲルマン人に属し、5世紀にブリテン島に侵入し、七王国を建てる。「アングル人の土地」の意味からイングランドの地名が生まれた。7世紀ごろ、七つの小王国を形成、9世紀にほぼ統一され、イングランド王国と言われるようになる。

 ゲルマン人の一派であるアングロ人=サクソン人はともにエルベ川下流域の北海沿岸にいたが、ゲルマン人の大移動の過程で、5世紀中頃から北海を超えて大ブリテン島に侵入し、先住のケルト人を征服し、そこに7つの王国をつくった。なお、大陸にとどまったザクセン人は、8世紀にフランク王国のカール大帝に征服され、ローマ=カトリック教会に改宗した。フランク王国分裂後は東フランクのザクセン家が有力となり、ザクセン朝にオットー1世が出現、ドイツ国家の中核となっていく。 → イギリス(2)
アングロ=サクソンの意味 一般にブリテン島に渡来したゲルマン人系の民族を総称してアングロ=サクソン人と言っているが、そのもとの意味は「アングロとサクソン」ではなく、「アングリアのサクソン」であり、大陸のサクソニアと区別する意味で使われたものである。アングリアという名称は「アングル族の国」を意味し、英語ではイングランドとなる。ローマ教会が一貫して使用したので、サクソン人もこの地域名として用いるようになった。
英語のはじまり アングロ=サクソン人の言語が英語のはじまりであった。「アングル人の土地」という意味の England とともに、「アングル人、アングル人の言葉」の意味の English という語が使われている。Engl- はアングル Angl- に由来するので、現在でもスコットランドやアイルランドの人々は English と言われることを好まない。
 この段階の英語は、英語の歴史では「古英語」といわれており、同じゲルマン系のドイツ語に近い。彼らはブリテン島の先住民ケルト人を征服してゆき、ブリテン島の主要言語は英語となった。ケルト語はアイルランドのゲール人に一部残存しているが、現在ではほとんど使われていない。しかし、アングロ=サクソンに同化したケルト人からケルト語とローマ帝国の属州ブリタニアであった時代のラテン語の語彙を借用している。<寺澤盾『英語の歴史』2002 中公新書 p.50-54>

七王国/ヘプターキー

 5世紀に大ブリテン島に移住したアングロ=サクソン人は、先住民のケルト人を征服、同化させながら島内各地に定着して行った。アングロ=サクソン人には、サクソン人、アングル人、ジュート人などいくつかの部族に分かれ、7世紀にはそれぞれが幾つかの国にまとまり、ブリテン島に7つの王国が成立した。これを七王国(ヘプターキー Heptarchy)と言う。エセックス・サセックス・ウェセックス・イースト=アングリア・マーシア・ノーサンブリア・ケントの七王国がそれである。
  • サクソン人 ブリテン島南部に定着。エセックス・サセックス・ウェセックスの三王国をつくった。
  • アングル人 イングランド北部からスコットランド低地地方に定着。イースト=アングリア・マーシア・ノーサンブリアの三王国を作った。
  • ジュート人 南東部のケント地方に定住。ケント王国を作った。
ただし、この七国の国境は一定しておらず、勢力範囲は流動的であった。七国の中では、ケント・エセックス・サセックスは早くに衰え、ノーサンブリア・マーシア・ウェセックスの三国が、順次覇権を握った。これら三国は激しく抗争し、ノルマン系のデーン人の侵攻とも戦う中で、次第にウェセックス王が優位に立つこととなった。

七王国時代の動き

  • 597年にはローマ教皇グレゴリウス1世が派遣した修道士によってキリスト教カトリック教会の布教活動が始まり、このうちのケント王国のエセルベルフト王が改宗し、601年に最初の拠点としてカンタベリー大司教座が置かれた。
  • 7~8世紀に強勢を誇ったノーザンブリア王国ではキリスト教文化が開花し、リンデスファーン島の修道院には素晴らしい装飾の施されたラテン語の聖書が作られ、ヨーク(大司教区となる)出身のアルクィンはフランク王国のカール大帝の宮廷で活躍した。
  • 8世紀にはマーシアが有力となり、国王オッファカール大帝とも対等な王として遇され、西隣のウェールズとの間に「オッファの防塁」といわれる境界線を築いた。オッファ王は自分の顔を図柄とした銀ペニー貨を発行している。しかし、825年、ウェセックス王エグバートに敗れ、マーシアは衰退した。
  • 829年、ウェセックス王エグバートは、マーシアをその宗主権の下におき、コーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配した。これをもってイングランド王国の成立とするのが一般的であるが、エグバートはイングランド全域を支配していたわけではなかった。
  • 830年代からノルマン人の一派、デーン人の侵攻が始まった。彼らの侵攻はイングランド・アイルランドの海岸の広範で行われ、内陸には騎馬で進軍して、イングランドのほぼ全域にその支配が及んだ。
  • 886年、ウェセックス王アルフレッドがロンドンを奪回、デーン人の支配地域を北東部に押しとどめ、そこをデーンローとしてデーン人の居住を認めた。アルフレッドは法律の制定、学問の保護など国家の基礎をつくり、「大王」と言われた。
  • 973年、アルフレッド大王の曾孫のエドガー王が、バースでキリスト教大司教よりイングランド王として戴冠され、形式的にもイングランド王国が成立、七王国時代は終わった。
 「アングル人の土地」を意味していたイングランドは、こうして七王国の分立時代が終わり、ウェセックス王家のもとで「イングランド王国」となった。しかし、11世紀になると再びノルマン系デーン人の活動が活発となり、イングランド王家の内紛もあって、1016年にはデーン人のクヌートが即位し、デーン朝となる。そのデーン朝も間もなく崩壊し、イングランド王位継承権を主張したノルマンディ公ウィリアムによって征服され、ノルマン朝が成立したことによって、ようやく中世国家としてのイングランドの統一が完成したと言える。  → くわしくはイングランド王国の項を参照。<指昭博『図説イギリスの歴史』2002 河出書房新社 p.11-16>
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指昭博
『図説イギリスの歴史』
2002 河出書房新社

寺澤盾
『英語の歴史』
2002 中公新書