ヴァイキング
スカンディナヴィア、ユトランド半島を本拠としたノルマン人で、9~12世紀に海洋に進出し、交易や略奪を行い、移住した人びと。入り江の民の意味。
ヴァイキングの船
荒正人『ヴァイキング』p.41 より
9~12世紀にかけて、現在のイギリスやフランスなど西ヨーロッパ各地の海岸地帯で、海賊活動とともに交易を行い、一部は移住していったノルマン人をヴァイキングという。彼らはスカンディナヴィア半島にいたのでスカンディナヴィア人ともいわれるが、特に大西洋側のノルウェーの入り江(ヴィーク)に住む人々でるところからヴァイキングと言われるようになった。彼らは、入り江を拠点に盛んに外洋を航行する船舶を襲うようになり、さらにおそらく人口増加の圧力から各地への植民に乗り出した。フランク王国の分裂で弱体化していた現在のフランスの海岸や、大ブリテン島の海岸を襲い、アイルランドにも侵攻した。イングランドにヴァイキングが初めて現れた記録は、793年であるが、9世紀から12世紀がもっとも活発な時期であった。
ヴァイキング・シップは木造なので残されることはなかったが、いくつか出土しており、その具体例を見ることができる。右の図はゴックスタッド・シップといわれる、1880年にオスロ・フィヨルド近くの農場の埋葬場から出土したもので、全長は21.58m、幅は5.10m、16組の櫂を備えた樫で造られたヴァイキング・シップである。これが遠洋航海でも使用可能であったことは、1893年にこれとまったく同じ大きさの船を再現したマグヌス・アンデルセン船長が大西洋をひと月足らずで横断したことによって証明された。ヴァイキング・シップは現在、ノルウェーの首都オスロのヴァイキング船博物館で復元・展示されている。<荒正人『ヴァイキング』1968 中公新書 p.40-43>
熊野氏は、「ヴァイキング活動の主体となった基本的部分は、直接的生産から分離していない農民たである」とし、その中で大農場を経営するような農民は家人や従士団を従えて武装し、王権に対抗するものも現れたと説明、その具体的な例を『サガ』の分析を通じて展開している。<熊野聡『北の農民ヴァイキング-実力と友情の世界』1983 平凡社/熊野聰『ヴァイキングの経済学-略奪・贈与・交易』2003 山川出版社>
ノルマン人の活動
ノルマン人が定住した北フランスの一部はノルマンディといわれ、911年、その指導者ロロはフランス王からノルマンディー公として認められた。イングランドではデンマーク王クヌートが1016年に征服王朝のデーン朝を建て、さらに1066年にはノルマンディー公ウィリアムがノルマン=コンクェストによってノルマン朝を成立させた。北大西洋での活動
またノルウェーのヴァイキングは北大西洋で、気候が温暖化したことで北方の海が凍結しなくなったことによって、活発に航海に出るようになり、874年にはアイスランドに到達し、定住地を設けた。さらに彼らはグリーンランドに進出して拠点を設け、そこから南下してラブラドル海を渡り、アメリカ大陸にまで到達した。後のニューファウンドランドに居留地を設けたが、13世紀ごろに気候寒冷化に伴って北大西洋の航海が困難になったため、居留地を継続できなかった。そのため彼らの新大陸発見はまったく忘れ去られてしまった。参考 ヴァイキングの活動の背景
ヴァイキング(古代スカンディナヴィア人)が盛んに海洋に進出した9~13世紀は、「中世温暖期」とも言われる、ヨーロッパで温暖な気候が続き、そのため人口が増加したことが彼らの活動が活発になった背景にあったという説がある。(引用)古代スカンディナヴィア人の活動の最盛期は、800年ごろから1200年ごろまでつづいた。それは技術の進歩や人口過剰、日和見主義といった社会的な要因のみが生み出した副産物ではない。彼らの壮大な冒険や征服活動が活発になったのは、北ヨーロッパにめずらしく温暖で安定した気候がつづいた中世温暖期と呼ばれる時期だったのである。これはそれ以前の8000年間のなかでもきわめて温暖な4世紀間だった。この暖かい気候はヨーロッパの大半と北アメリカの一部に影響を及ぼしたが、この温暖期が地球全体で見るとどれほど大きな現象だったかは議論の余地がある。しかし、暖かい世紀が歴史にもたらした影響は、特に北方の地域では計り知れない。800年から1200年のあいだに大気と海面の温度が上昇したせいで、その前後の世紀とくらべて海氷が減った。ラブラドルからアイスランドまでの氷の状態はいつになく良好で、遠方までの航海も可能になった。<ブライアン=フェイガン/東郷えりか他訳『歴史を変えた気候大変動』2009 河出文庫 p.38-9>
ヴァイキングの船
ヴァイキングの使用した船、ヴァイキング・シップには、「ロング・シップ」(長い船)と呼ばれる、喫水線が浅く、船腹の狭い、速度が速いので主として戦闘用に使われた軽舟と、「クナル」と呼ばれる、容積も大きく交易用に使われた大型船の二種類がある。いずれも樫その他の木材で造られ、甲板はなく舷側は二枚張りで、人力による櫂と風力を利用する帆を併用した。元々はフィヨルドや河川、湖沼で使われていたが、次第に外洋航行にも耐える堅牢な舟を建造するようになり、9世紀頃から盛んに周辺の海洋に進出していった。ヴァイキング・シップは木造なので残されることはなかったが、いくつか出土しており、その具体例を見ることができる。右の図はゴックスタッド・シップといわれる、1880年にオスロ・フィヨルド近くの農場の埋葬場から出土したもので、全長は21.58m、幅は5.10m、16組の櫂を備えた樫で造られたヴァイキング・シップである。これが遠洋航海でも使用可能であったことは、1893年にこれとまったく同じ大きさの船を再現したマグヌス・アンデルセン船長が大西洋をひと月足らずで横断したことによって証明された。ヴァイキング・シップは現在、ノルウェーの首都オスロのヴァイキング船博物館で復元・展示されている。<荒正人『ヴァイキング』1968 中公新書 p.40-43>
ヴァイキングの実相
ヴァイキングは日本ではカーク・ダグラスの映画『バイキング』以来、海賊というイメージが強いが、それはどうやら実像とはかけ離れているらしい。北欧社会史の研究者熊野聰氏は、ヴァイキングの語意には「入り江の人」という人物を表すだけでなく、「略奪行為をする」という行為を表す意味もあり、しかもかれらの「略奪」行為は、職業的な海賊としての行為ではなく、日常には農民である人が時期によって洋上に出て「略奪」を行うことを意味していたという。また「略奪」といっても通常は平和的な交易であり、話がまとまらないときに備えて武装したかれらが力を行使すれば「略奪」となるのであった。熊野氏は、「ヴァイキング活動の主体となった基本的部分は、直接的生産から分離していない農民たである」とし、その中で大農場を経営するような農民は家人や従士団を従えて武装し、王権に対抗するものも現れたと説明、その具体的な例を『サガ』の分析を通じて展開している。<熊野聡『北の農民ヴァイキング-実力と友情の世界』1983 平凡社/熊野聰『ヴァイキングの経済学-略奪・贈与・交易』2003 山川出版社>
ヴァイキング観の変化
(引用)わが国で知られている「ヴァイキング」という存在は、8世紀末から11世紀にかけて西欧を襲撃した北欧(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)の海賊である。その最初の記録は793年で、この年の一月ノルウェーからやってきたと思われる「異教徒」が、北東イングランド海岸の沖合にある小さな島リンディスファーンの修道院を襲撃した。史料は『アングロサクソン年代記』であるが、冬期の北海は航海に向いていないので、この一月(Jan.)は六月(Jun.)の誤記であろう。・・・被害を受けた西ヨーロッパの国々では「ヴァイキング」は船で不意にやってくる破壊者で、放火、略奪、人さらい、すなわちもっぱら海賊とみなされてきた。けれどもそもそもヴァイキングとはどういう現象であるかを知るには、なぜ略奪するのか、元来は何者で、その故国はどのような生活環境にあったのかを知らなければならない。19世紀後半あたりから研究者のあいだでは、ヴァイキングが商業活動に従事していたことが知られるようになった。・・・この半世紀には、むしろ平和な商業・交易のほうが中心ではないか、と考えらる向きも少なくない。<熊野聰『ヴァイキングの経済学-略奪・贈与・交易』2003 山川出版社 p.170-172>
Episode ヴァイキング料理
日本でいう「ヴァイキング料理」とは、彼らとはまったく関係がない。昭和50年代に、日本のあるホテルで、料理を好きなだけ取り分ける方式の食事形式を取り入れた時、たまたま上映されていたアメリカ映画カーク・ダグラス主演の「バイキング」の食事シーンをヒントにして名付けただという。欧米で同様の形式の食事はブッフェスタイルという。