ウラディミル1世
10世紀末から11世紀初めのキエフ公国(キエフ=ルーシ)の大公。公国の領土を拡張し、ビザンツ帝国と結んでその皇女を后として迎え、ギリシア正教会に改宗した。ロシア国家発展の基礎を作った。
Vladimir Ⅰ在位(980~1015) ロシア語ではヴラジーミル、ウラジミール、ウクライナ語ではヴォロディーミルなどとも表記する。キエフ公国の大公。10世紀末からキエフ公国の領土拡大を進め、ビザンツ帝国の皇帝(マケドニア朝)バシレイオス2世から、ブルガリア王国攻撃の支援を条件に、皇帝の妹アンナを妃とすることとなった。ビザンツ皇帝と親戚関係となったウラディミル1世は、988年にギリシア正教に改宗し、990年にはギリシア正教を国教とした。
ウラディミル(ウクライナ語ではヴォロディーミル)は始めは偶像を作り、生け贄をささげ、5人の妻と800人もの妾がいた。イスラーム教を信仰するブルガール人がイスラーム教を勧めて「マホメットは割礼をせよ、豚肉を食べるな、酒を飲むな、その代わりに死後には女たちと淫行をすることができると言っています」。ウラディミルは淫行の話は楽しげに聞いていたが、「ルーシ人は呑むことだけが楽しみなので、それなしではとても生きていけない」と答えた。またユダヤ人が来てユダヤ教を勧め、「我々の掟は、割礼をし、豚肉・兎肉を食べず、また安息日を守ることです」。ウラディミルは「お前たちの国はどこにあるのか」と訪ねると、「イエルサレムに。しかし我々の罪のために追い出され、今はキリスト教徒のものになっています」との答え。それを聞いたウラディミルは「自分たちの国を追い出されているのに、どうして自分の信仰を勧めることができるのだ」と言って彼らを退けた。ウラディミルは今度は家臣をギリシア人の所に送った。その使いの者が言うには「コンスタンティノープルの教会は天上にいるような心地でした。地上にはこれ以上の栄光も美しさもありません・・・」と報告した。
ウラディミルは、987年、内訌のため助けを求めてきたビザンツ皇帝に援軍を送ったが、その代償として皇帝の妹を妻にほしいと要求した。皇帝は承諾したが、実行をしぶった。そこでウラディミルはビザンツ領だったクリミア半島の砦ケルソネソスを占領して、約束の履行を迫った。妹アンアはいっそ死んだ方がいいと抵抗したが、兄からビザンツ帝国を救うことになると説得されて、泣く泣くウラディミルと結婚した。約束どおりウラディミルはケルソネソスをビザンツ帝国に返還し、キエフに帰って5人の妻と800人の妾と縁を切り、異教の神々の偶像を川に投げ捨て、洗礼を受けた後に新妻へのプレゼントとして、家臣その他を強制的にドニェプル川に連れて行き、集団で洗礼を受けさせた。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.42-44/高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫 p.126>
Episode ウラディミル1世の改宗
ロシアの古典『原初年代記』によれば、彼がギリシア正教会に改宗するには次のようないきさつがある。ウラディミル(ウクライナ語ではヴォロディーミル)は始めは偶像を作り、生け贄をささげ、5人の妻と800人もの妾がいた。イスラーム教を信仰するブルガール人がイスラーム教を勧めて「マホメットは割礼をせよ、豚肉を食べるな、酒を飲むな、その代わりに死後には女たちと淫行をすることができると言っています」。ウラディミルは淫行の話は楽しげに聞いていたが、「ルーシ人は呑むことだけが楽しみなので、それなしではとても生きていけない」と答えた。またユダヤ人が来てユダヤ教を勧め、「我々の掟は、割礼をし、豚肉・兎肉を食べず、また安息日を守ることです」。ウラディミルは「お前たちの国はどこにあるのか」と訪ねると、「イエルサレムに。しかし我々の罪のために追い出され、今はキリスト教徒のものになっています」との答え。それを聞いたウラディミルは「自分たちの国を追い出されているのに、どうして自分の信仰を勧めることができるのだ」と言って彼らを退けた。ウラディミルは今度は家臣をギリシア人の所に送った。その使いの者が言うには「コンスタンティノープルの教会は天上にいるような心地でした。地上にはこれ以上の栄光も美しさもありません・・・」と報告した。
ウラディミルは、987年、内訌のため助けを求めてきたビザンツ皇帝に援軍を送ったが、その代償として皇帝の妹を妻にほしいと要求した。皇帝は承諾したが、実行をしぶった。そこでウラディミルはビザンツ領だったクリミア半島の砦ケルソネソスを占領して、約束の履行を迫った。妹アンアはいっそ死んだ方がいいと抵抗したが、兄からビザンツ帝国を救うことになると説得されて、泣く泣くウラディミルと結婚した。約束どおりウラディミルはケルソネソスをビザンツ帝国に返還し、キエフに帰って5人の妻と800人の妾と縁を切り、異教の神々の偶像を川に投げ捨て、洗礼を受けた後に新妻へのプレゼントとして、家臣その他を強制的にドニェプル川に連れて行き、集団で洗礼を受けさせた。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.42-44/高橋保行『ギリシア正教』講談社学術文庫 p.126>