オランダの干拓
広大な海面下地帯を13世紀以降に干拓を進め、国土の20%を得る。
オランダ(正確にはネーデルラントで、低地の意味)は現在でも国土の約30%は海面より低く、また国土の20%以上は、13世紀以降の干拓事業によって「自力で造り出された」土地である。1200年代初頭から1900年までの700年間に4625平方キロが干拓され、20世紀に入ってからは、すでに2500平方キロの土地が生み出され、合計約8100平方キロに及んでいる。彼らは「世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」と自負している。<以下、皆越尚子『オランダ雑学事始』1989 彩流社 p.20,71-74 による>
干拓の始まり
オランダの国土は氷河期の洪積層が北海に向かって徐々に潜り込むところに、氷河や川に運ばれた土砂が堆積してできた。紀元前700年頃から海の浸食作用が目立ち始め、海水が陸地に入り込んで湾や海水湖を造ったり、度重なる洪水で土地を失うことが多くなった。『ガリア戦記』には「ネーデルランド地方では水に囲まれた土地に、土を盛って地面を高くした上に人びとが住んでおり、主に魚を捕って生活している」と記されている。ローマはその土木技術が導入して治水工事、堤防工事などを行ったがローマ帝国滅亡後はその種の工事は行われなくなり、洪水や浸水が繰り返された。13世紀に入って、陸地を失うことを防ぎ、さらに積極的に陸地を造り出す努力が始まった。経済の発展によって増えた人口を養うための農地の拡大が目的だった。三圃制の普及などに伴う農業生産力が向上して起こった西ヨーロッパ中世世界の変容の一環としてとらえることが出来る。ポルダーの特徴
オランダの干拓地はポルダーと呼ばれている。この干拓地はあまり深くない湖沼や入り江の水を「締め切り堤防」でせき止め、中の水を汲み出して干あがらせる方法をとり、地下水の水位が人工的に調節、管理されており、水位が上がると堤防の外側の水路に排水されるようになっている。20世紀の大プロジェクト
アムステルダムの北には北海から入り込んだゾイデル海という大きな入り江があった。1930年代初頭から、この入り江の首の部分を締め切り堤防で遮断し、大きな内陸湖アイセル湖とした。当初は海水湖であったが、現在では淡水化している。締め切り堤防は4車線の高速道路としても利用されている。このアイセル湖は5区画に区分し干拓を進めることとし、4区画1650平方キロが完成したが、自然環境の保護が叫ばれるようになり、1986年に残りの1区画の干拓は中止となった。一方、オランダ南西部、ライン川下流のワール川三角州地帯で、1953年に海水が浸水して1800人もの犠牲者が出たことを機に、「デルタ・プロジェクト」が開始され、7つの河口のうちロッテルダム港とアントワープ港に通じる河口を除いた5つに締め切り堤防を設置する大工事を行い、1986年に完成した。そのうち1箇所は自然保護のため、暴風の時だけゲートを閉める可動式とされた。オランダの風車
オランダと言えば、そのシンボルが風車であるが、それは干拓地の造成に大活躍した。堤防の内側の海水をひたすら汲み出し、干上がらせるために風力を使った風車は用いられ、また干拓後の水位管理にも使われた。ヨーロッパでは地中海沿岸で12世紀ごろに見られたが、南西風の強いオランダでは13世紀ごろから小麦の粉ひきや、油絞りなどで使われるようになり、14世紀になると沼地、特に泥炭を掘ったとの排水動力に使われ、さらに16世紀には風車のメカニズムの改良により一層広範囲な動力として、米の脱穀、煙草の製造、羊毛の圧縮、帆綱の材料となる大麻をたたくなどなど、あらゆる工業の動力として用いられた。これがオランダの貿易の急速な発達とともに新しい需要を産みだした。そればかりでなく、風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは帆船と似たところがあり、風車の羽根に張る帆布、方向固定のための策具や滑車、動力伝達のための心棒や歯車は、帆船の不可欠の部品となった。つまり、風車の技術は船舶技術に応用され、海洋王国オランダを支える技術となったのである。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000刊 p.58>Episode 風車のメッセージ
現在では風車はほとんど姿を消し、アムステルダム郊外のザーンセ=スカンスやロッテルダム郊外のキンデルダイクなどで観光用に保存されている。風車にはもう一つの使い方があった。風車はその羽根のとまり具合からメッセージを読み取ることができる。天地をさして十文字に止まっているときは「ただいま小休止」、斜め十字に止まっているのは「休業中」、一本が頂点からすこしすぎたところで止まっていればその家に祝い事があることを示していた。この「風車の羽根のメッセージ」は第二次世界大戦の時に、レジスタンス同志間や、レジスタンスと連合軍の連絡に密かに利用され、大いに役に立ったという。<皆越尚子『オランダ雑学事始』1989 彩流社 p.20-21>