レジスタンス/抵抗運動
1940年5月の降伏から、44年8月の解放までの間、ナチス=ドイツの占領に対して戦われたフランス人の抵抗運動。国内では主としてフランス共産党が組織し、海外ではロンドンで「自由フランス」を組織したド=ゴールが主導した。これらの抵抗運動を総称してレジスタンスという。1944年8月、国内のレジスタンス組織がまず武装蜂起、連合国軍もそれに押されてパリに向かい、8月25日にパリを解放した。同日パリに入ったド=ゴールはパリ解放の主導権を握ったことをアピールした。
国内のレジスタンス
フランス国内での抵抗運動の組織化に努めたのはフランス共産党だった。フランス人民戦線に閣外から積極的に協力していた共産党であったが、人民戦線の崩壊後は低迷し、さらに独ソ不可侵条約の衝撃によって打撃を受けていた。1939年9月には解散命令が出され、地下に潜っていた共産党であったが、41年6月に独ソ戦が始まると、ドイツとの戦いの大義名分を得ることによって活動を活発に再開した。8月にはパリの地下鉄でドイツ軍将校を射殺するというテロを成功させたが、獄中の共産党員が処刑されるという報復を受けている。ド=ゴールの自由フランス
海外にあっては、休戦協定に反対してロンドンに亡命した軍人のド=ゴールが自由フランス政府を樹立し、1940年6月18日にイギリスBBC放送を通じ、対独レジスタンスを呼びかけた。自由フランス政府の組織した軍は、まずアフリカ戦線でドイツ軍と戦い、チャド、赤道アフリカ、カメルーンなどで勝利を収めた。ド=ゴールの活動は当初は連合国から認められていなかったが、ド=ゴールは国内の抵抗運動との連携に成功して43年5月、全国抵抗評議会(CNR)を組織、さらに抵抗運動と軍の統合するフランス国民解放委員会(CFLN)を6月にアルジェで立ち上げてフランスの中央政府であることを宣言した。これには国内の政党とレジスタンス指導者が参加し、ド=ゴールをその代表とすることで合意した。44年6月2日には解放委員会は共和国臨時政府となり、ド=ゴールを首班としてフランスの再建が開始された。しかしアメリカのローズヴェルト大統領は、解放委員会の中で親ヴィシー政府派のジロー将軍と反ヴィシー派のド=ゴール将軍の対立があることから、それを合法政府とはみなさなかった。
パリの解放
戦局は1943年2月のスターリングラードでのドイツ軍の敗北を境に、急速に連合軍の勝利に向かっていた。5月に北アフリカで独伊軍が降伏、9月にイタリアが降伏、44年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸した。連合国軍総司令官アイゼンハウアーは犠牲の多いパリ攻略を後回しにしてドイツ軍主力を直接たたくことを重視していたが、パリのレジスタンス組織はドイツ軍の敗退は近いと独自に判断し、8月19日に武装蜂起を決行した。レジスタンス組織はド=ゴールに近いルクレール将軍との接触に成功し、連合軍のパリ攻略を強く要請、ルクレール将軍の働きかけもあって連合国軍は方向を転換、パリ解放に向かうことになった。しかし、フランス解放をめぐって、ド=ゴールの亡命政府「自由フランス」と、共産党系が強い国内レジスタンス派のどちらがその主導権をにぎるか、という内紛の種をかかえていた。ド=ゴールがパリ解放を急いだのは、共産党のイニシアティブの強いレジスタンス組織が独力でパリ解放に成功することを避けたかったからであった。パリに進撃したルクレール軍はレジスタンス民兵の協力でパリに入り、市街戦を展開し、ついに1944年8月25日にドイツ軍の防衛司令官コルティッツ将軍を降伏に追い込んだが、大きな働きをしたのは市民兵士だった。このとき、コルティッツはヒトラーの命令に従い、パリのエッフェル塔やルーブル美術館などの主要施設を爆破する計画を進めていたが、中立国スウェーデンのパリ駐在領事ノルドリックの説得を受け、爆破計画を中止したという<映画『パリは燃えているか』や『パリよ、永遠に』で描かれている>。→ パリ(現代)の項を参照
8月25日午後、「解放」直後のパリに到着したド=ゴールは、国内レジスタンスの貢献をまったく黙殺し、「自由フランス」がフランス第三共和政を継承する正当性を誇示した。戦争は翌1945年5月まで続き、ド=ゴールは最終段階までフランス軍を戦争に参加されることに固執し、それに成功したが、ヤルタ会談にも、ポツダム会談にも招かれなかった。<柴田三千雄『フランス史10講』2006 岩波新書 p.204>