アムステルダム
ネーデルラントの独立によって首都となり、アントウェルペンに代わって国際商業で栄える。信仰の自由を求めてフランスから移住したユグノーや、スペインに併合されたポルトガルから逃れてきたユダヤ人によって商業活動が活発におこなわれた。
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アムステルダム繁栄の裏事情
ユダヤ人の移住 1580年、ポルトガルがスペインに併合されたとき、多数のキリスト教に改宗していたユダヤ人は、スペインと同じ異端審問が行われることを恐れて、スペインからの独立をめざしていたアムステルダムに移住した。彼らは自由な信仰を求めて移住したが、高い手工業の技術や言語能力、知識を有していた。特に彼らのもっていたダイヤモンド加工技術がこのときアムステルダムに伝えられ、それがこの地の一大産業の始まりとなった。こうしてユダヤ人にとってアムステルダムは「北のイェルサレム」とさえ言われる安住の地となった。彼らイベリア半島から逃れてきた人々はセファルディウムと言われ、アムステルダムの商工業を支え、さらにオランダ領の世界各地に拡がっていった。ユグノーの移住 その他、フランスからはカトリック側の迫害やユグノー戦争の難を避けた多くの新教徒が移住してきたことや、国教会による抑圧から逃れてイギリスからピューリタンが移住してきたことなどがアムステルダムの商工業の発展に大きな寄与をすることとなった。ユグノーはフランスでは1598年にナントの王令で信仰を認めらたが、ブルボン朝の絶対王政が安定したルイ14世の時、1685年にナントの王令が廃止されたため、フランスから出なければならず、その一部はやはりアムステルダムに移住した。ユグノーは生産や商業に熱心に努めることを信条としていたので、これもアムステルダムの産業の発展に大きくキョすることとなった。
Episode チューリップ・バブルはじける
オランダと言えばチューリップが有名である。17世紀のアムステルダムでは、チューリップの球根が投資の対象となり、高額な取引が行われてチューリップ・バブルと言われる投機熱が人びとを狂わせ、そのバブルがはじけて財産を失ったものも多かったという。国際金融都市として繁栄したアムステルダムでのエピソードと言うにはいささか深刻な一こまである。チューリップは中央アジアの原産で、アフガニスタンやイランを通じてオスマン帝国の宮廷でで大いにもてはやされた。15,6世紀にオスマン帝国にやってきた商人や外交官がヨーロッパにチューリップをもたらしたらしい。特にオランダではその美しさが受け容れられた。
(引用)チューリップはもともとトルコの宮廷の庭園で大事に育てられていた花で、これをあるオランダ人の商人がその美しさに感嘆してスルタンから下賜され本国へ持ち帰ったのが最初であり、その花がトルコのターバンに似ているところから「チュルクリップ(トルコの帽子)」と呼ばれるようになったことに由来しているという。<大島直政『遠くて近い国トルコ』 1968 中公新書 p.120>オランダ独立戦争が始まり、南ネーデルラントがスペイン軍に抑えられたため、多くの新教徒商工業者が北部に移住してきた。彼らはアムステルダムやライデンなどの商工業の発展をもたらし、独立に伴って多く富と高い文化を有するようになった。そのころ、ライデン大学の植物学者クルシウスがチューリップの栽培法を研究し、野生種から園芸種に品種改良を行って多彩な品種を生みだすと、その美しさは都市貴族や富裕な商人の心を捉えた。17世紀にはいるとその栽培が大流行し、特に美しい品種の球根が値段で取引されるようになった。貿易商たちが海外貿易で得た黒字を、チューリップに投資したのである。
その結果、1633年から高騰し始め、その頂点である1637年には、たった12個の球根に6650ギルダーの値が付いた。一家を養うのに1年に300ギルダーですむ時代に、である。ところが、次の週になっていきなり値段が十分の一に急落、さらに下落は止まらずチューリップ投機に熱を上げた人びとが次々と破産した。チューリップ・バブルがはじけたのだ。これは資本主義社会でその後何度も繰り返され、日本の土地バブル、そしてサブプライムローンの破綻から始まったリーマンショックなどの現在も起きてい投機の過熱がもたらす悪しき経済現象の始まりだった。オランダではチューリップ=バブルははじけたが、その美しさに罪はなかったので、チューリップ栽培は現在でも盛んに行われていることは皆さんもよくご存じのことである。<M.ダッシュ/明石三世訳『チューリップ・バブル』2000 文春文庫>