オランダ/オランダ王国
現在のヨーロッパの北西部、北海に面したオランダは、16世紀に海外との交易で急速に発展し、鎖国時代の日本ともヨーロッパのなかで唯一交渉をもった重要な国である。オランダ王国はベネルクス三国の一つとしてヨーロッパ統合の中心的役割を担っている。
オランダ(現在) Yahoo Map
- 古代~16世紀についてはネーデルラントの項を参照。
- 16世紀~18世紀の詳細についてはネーデルラント連邦共和国の項を参照。
- (1)スペインからの独立
- (2)19世紀のオランダ
- (3)第二次世界大戦とオランダ
- (4)戦後のオランダ
NewS オランダという国号は使えない?
オランダ政府は2020年1月1日より、公式国号としてのオランダ Holland を使用せず、すべて the Netherlands とすると発表、同時に各国でも Holland を使用しないように、という通達を出した。これまでは同国の英語表記は Holland (固有名詞なので定冠詞は付けない)と the Netherlands (netherland だけだと低地という言う意味の普通名詞なので、国名としては定冠詞を付ける)の両方を使用していたが、ここに来て一本化することになった。日本では外務省でもそのまま正式国号を「オランダ王国」としており、マスコミにも変更の動きはない。それは、日本では長い両国の関係の中でオランダという国号が定着していることをオランダ政府も認めたためだそうで、安心してオランダといったり書いたりしていいようです。<ネットニュース 2020/01/20>
スペインではオランダを何というの? かつてオランダを支配していたスペインでは、オランダのことを何と呼んでいるのでしょうか。興味のある人はこちらをご覧下さい。 → YouTube まりこのスペイン語 スペイン語での発音が違いすぎる国の名前
Episode オランダの地名
首都のアムステルダムという地名は、アムステル川の堤防(ダム)のうえにつくられた町、と言う意味。13世紀にギスプレスト2世という人が、アムステル川の河口の漁村に築城し、堤防を築いて都市を建設したのが起こりだという。なお、同じオランダのロッテルダムも、ロッテ川のダムのうえ、と言う意味。ユトレヒトという地名は、下(ユト)と渡船場(トレヒト)が一つになったもので「渡船場の川下」の意味。いずれも、堤防や運河が発達した低湿地帯らしい地名である。<牧英夫『世界地名ルーツ辞典』p.47> → オランダの干拓<オランダ史の概観>
スペイン=ハプスブルク家領としてスペイン王に支配されていたが、16世紀半ばに独立運動を開始、1609年に実質的にネーデルラント連邦共和国として独立し、オランダ総督が治める国家となった。オランダはヨーロッパの新興国家として特に中継貿易に進出、イギリスと激しく競争するようになった。1648年、ウェストファリア条約で独立を国際的に承認された後、17世紀後半は英蘭戦争を戦い、その後フランスのルイ14世による領土の侵犯が脅威となると一転してイギリスと同君王国となった。しかし18世紀末にはフランスの勢力の拡大とともに弱体化が始まり、1830年には南半分がベルギーとして独立した。19世紀後半には産業革命を進行させ、同時にオランダ領インドネシアなどの植民地支配を強化し、資本主義国として発展した。第二次世界大戦ではドイツの軍事侵攻を受け、苦難が続いたが、戦後はいち早くベルギー、ルクセンブルクとベネルクス三国の協調体制をとり、米ソの冷戦時代を乗り切ってヨーロッパ統合を進めている。
(1)スペインからの独立
ネーデルラント連邦共和国
1581~1795年。ネーデルラント連邦共和国は1581年には独立を宣言し、独立戦争を指導したオラニエ公ウィレムがオランダ総督となった。それを支援するイギリスが1588年にスペインの無敵艦隊を破ったこともあって、1609年には講和が成立し、実質的な独立を達成した。(1581~1795)
17世紀前半 オランダの全盛期
東インド会社 この独立戦争を行う一方で、オランダは積極的な海外進出に乗り出した。1602年にはオランダ東インド会社を設立して、南インド・東南アジア・台湾などでポルトガル勢力を駆逐し、1623年にはアンボイナ事件でイギリスの勢力を排除することに成功し、東南アジアとの香辛料貿易で独占的な立場を獲得した。特にジャワ島を中心とした現在のインドネシアはオランダにとって最も重要なオランダ領東インドを形成していくこととなる。また台湾では1624年に南部にゼーランディア城を建設し、中国進出の起点としようとした。しかし明末から清初の混乱期にこの海域の海賊として台頭した鄭成功によって台湾からは撤退させられた。西インド会社 一方、1621年には西インド会社を設立して西インド諸島とブラジル、アフリカ西岸を結び奴隷貿易にも進出、ブラジルでは砂糖プランテーションも行った。また北米大陸東岸に植民地ニューネーデルラントを建設した。
アムステルダムの繁栄 こうしてオランダは、東アジアから新大陸に及ぶ広範な地域との交易により、世界経済の中でも先進的な地位を占めることとなった。その中でオランダ東インド会社は世界最初の株式会社と言われ、資本主義社会の企業の原型となった。このころ首都アムステルダムは世界金融の中心地として栄え、近代世界システムの中核となった。
独立の国際的承認 1618年、ベーメン(チェコ)の新教徒がスペインによる旧教の強制に反発してベーメンの反乱を起こすと、オランダは新教徒を支援してスペインからの独立戦争を再開した。これが三十年戦争に拡大し、ヨーロッパに大きな戦禍が及んだが、その間、オランダは海洋帝国として発展し、1648年のウェストファリア条約で国際的にもその存在が承認された。
干拓と運河網 17世紀前半のオランダは、海外との貿易の展開と共に、国内での干拓事業・運河網の建設などの農業基盤が整備が進み、都市向け園芸農業が盛んになった。風車でおなじみのオランダの農村風景はこの頃出来上がった。またガラス工芸、毛織物、造船、醸造、印刷などの工業も起こり、ヨーロッパで最も高い生産力を誇る地域となった。
合理主義の思想 三十年戦争の時期、オランダでは、フランス人のデカルトはオランダで生活し、『方法叙説』などを著し、数学的な思考に基礎をおく合理論哲学の思索を深め、イギリスの経験論哲学とともに後の思想に大きな影響を与えた。またオランダ人の法学者・外交官のグロティウスは、三十年戦争を体験する過程で国際法の理念を打ち出すなど、ともに近代思想に大きな影響を及ぼしている。
日本との関係 17世紀中葉、ヨーロッパ諸国が三十年戦争で疲弊している間に、また17世紀初頭から日本とオランダの関係が成立し、東インド会社を通じて日本の鎖国中もヨーロッパのなかで唯一オランダのみが長崎出島に商館を設け、関係を継続した。
17世紀後半 オランダの衰退始まる
英蘭戦争 このオランダの海外発展は、ポルトガル・スペインの旧勢力を駆逐しながら進められたが、その結果、17世紀後半にはイギリスとの確執を生むこととなった。イギリスはピューリタン革命が勃発し、クロムウェルが権力を握ると、オランダの進出に脅威を感じていた貿易商の要請を受けて航海法を制定、オランダの締め出しをはかった。そのためにイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)(1652年~74年)となって、オランダはイギリスと激しく海上の覇権を争うことになった。この時、海外発展を背景にして台頭した都市の有力者層は、オラニエ家の総督を一時廃して、共和政治を実現、そのもとで英蘭戦争を戦った。第1次英蘭戦争では敗れたものの、第2次英蘭戦争では海軍力を増強してイギリス海軍を破り、一時はテムズ川を遡ってロンドンを脅かすなどの勝利をおさめた。その講和条約であるブレタ条約では北米大陸のニュー・アムステルダムをイギリスに譲ったものの、南米大陸でスリナムを獲得した(当時はスリナムの方が価値があると思われていた)。しかし、第3次英蘭戦争ではイギリス(チャールズ2世)とフランス(ルイ14世)が同盟し、フランス軍が陸上から侵攻(オランダ戦争)してきたことによって苦戦に陥り、その過程で共和派政権は倒れ、オラニエ家のウィレム3世が総督に復活、その強力な指導のもとでフランス軍に抵抗、またウィレム3世がチャールズ2世の娘メアリーと結婚することでイギリスとの提携に成功して難局を乗り切った。
ウィレム3世、イギリス王を兼ねる 17世紀後半にはオランダは並行してフランスのルイ14世の侵略を受けてたびたび苦戦に陥ったため、イギリスとの抗争を切り上げ、ウィレム3世はイギリスと結んで独立と領土の維持をはかった。イギリスに名誉革命が起きると、ウィレム3世はプロテスタントの中心人物としてイギリス国王を兼ね1689年にウィリアム3世となって両国の君主となった。1702年、スペイン継承戦争のさなかにウィレム3世は落馬事故がもとで死去、それによってイギリスとオランダは分離することとなった。
18世紀 オランダの衰退
1702年、イギリス・オランダが分離すると、イギリスは北米大陸やインドにおけるフランスとの植民地戦争で勝利を重ね、植民地帝国として18世紀に大発展、後半には産業革命の時代を迎え工業化に突入する。一方のオランダは、議会と総督の内部対立から総督が置かれない時期もあるなど混乱が続いた。第4次英蘭戦争となる ヨーロッパを二分した七年戦争(1756~63年)でもイギリスとの同盟関係を維持するために、オランダは中立を守った。1775年にアメリカ独立戦争が始まっても、当初はイギリスとの関係を守り中立を守っていたが、イギリスがアメリカを海上封鎖すると、アムステルダムの貿易商は対アメリカの密貿易を行うこととなり、イギリスは強くオランダを非難するようになった。オランダにはアメリカ独立を支援して同盟関係を結ぼうとする動きもあらわれたが、それに対してイギリスは1780年12月、オランダに宣戦布告し第4次英蘭戦争となった。
植民地の喪失 イギリス海軍は西インドのオランダ植民地やセイロンを攻撃し、東インドでもオランダの船舶の多くを拿捕、オランダは甚大な被害が生じ、1784年5月のパリ条約でオランダは敗北を認めて戦争は終結した。オランダはインド最後の拠点ナーガパッティナムをイギリスに割譲し、マルク諸島もイギリスに開放するなど、すでに17世紀の海外市場での覇権は失っていたが、この敗北によって、オランダの植民地はほぼオランダ領東インド(現在のインドネシア)のみとなった。
オランダの衰退の背景には、国内産業の未発達、労働者の低賃金によって国内市場が成長できなかったことが考えられ、結局、イギリスとの世界経済をめぐる争いに敗れ、中継貿易のみに依存することになった。
オランダ(2) 19世紀のオランダ
フランス革命・ナポレオン時代にフランスの支配を受け、ウィーン議定書で独立を回復し王国となる。ベルギーを併合したが、その独立運動がはげしくなり、1830年に分離独立。オランダ領東インドでは強制栽培制度を展開した。
バタヴィア共和国
バタヴィア共和国は、1795~1806年、フランス革命の影響でオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の共和派がオラニエ家を追放し、成立した共和国。バタヴィアとはローマ時代にこの地にいたゲルマン人部族で勇猛を以て知られたバタヴィー族に由来する。オランダ語ではバターフといい、愛国派は自らをオランダ人ではなくバターフ人(バターフェン)と称した。形式的には独立した共和国であるが、実質的にはフランスの属国に等しかった。1806年、ナポレオンによって征服され、オランダ王国となった。1789年にフランス革命が勃発、91年のルイ16世の処刑を機に周辺諸国の干渉が強まる中、フランス国民公会は1793年にイギリスとオランダに宣戦布告し、オーストリア領南ネーデルラントに侵攻した後、1795年にオランダの全土を制圧した。オランダ国内の愛国派(共和政派)はフランス軍と結んで、オラニエ家の全州総督支持派と戦い、総督ウィレム5世はイギリスに亡命し、ネーデルラント連邦共和国は終わった。フランス軍と結んだ共和派は、1795年5月、バタヴィア共和国を樹立した。この間、1799年にはオランダ東インド会社を解散した。
オランダ王国とフランスの支配
フランスで皇帝となったナポレオンは、1806年6月、バタヴィア共和国を倒し、弟のルイを国王につけてオランダ王国とした。ナポレオンの大陸支配の一環であった。しかし国王ルイはオランダ人に対して妥協的であったため、ナポレオンは1810年には国王を廃し、フランス帝国の直轄領とした。オランダ王国は1806~1810年の短命に終わり、オランダはナポレオン帝国に組み込まれ、世界から一時、消滅することとなった。動乱、長崎におよぶ 1808年8月にはイギリス船フェートン号が長崎に入港し、オランダ商館を襲うというフェートン号事件が起こっている。フェートン号はオランダの国旗を掲げて偽装し、侵入した。それを見破ることが出来なかった長崎奉行松平康英は責任をとって切腹した。1810~15年の間、オランダはフランスに征服されて消滅したが、フランスの海軍力は東インドまでは及ばなかった。その隙を突いたイギリスは、バタヴィアなどオランダ植民地を占領し、その利権を奪おうとしたのだった。また日本の長崎へのオランダ船の来航も一時、途絶えた。 → 日本とオランダ
オランダ立憲王国
1815~1830年。オランダ連合王国、ネーデルラント王国とも言う。ナポレオン没落後、ウィーン会議で締結されたウィーン議定書で、フランスに併合されていたオランダはオラニエ家のウィレム1世を国王とする立憲王国として復活した。またこのとき、フランスに隣接するベルギーをフランスの影響から分離させるため、オランダに併合した。そのため、この国を連合王国ともいう。こうしてオランダは、それまで「総督」であったオラニエ家が「国王」となって王位を世襲する王国となり、王位は現在まで継承されている。南ネーデルラント(ベルギー)はナポレオン以前はオーストリア領であったが、ウィーン議定書ではオーストリアへの返還ではなく、オランダ立憲王国の一部とされることで落ち着いた。オーストリアのメッテルニヒは、オランダをベルギーも含めて独立させることで、フランスを封じ込めることを意図した。また、イギリスもフランスが再び強大になったときに、オランダがイギリスとの間の緩衝国家となることを期待して、それを容認した。イギリスは、ウィーン議定書で、1811年に占領していたジャワ島とその周辺をオランダに返還する一方、旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)、ケープ植民地の領有を認められ、漁夫の利を得た。
ベルギーの分離独立
ウィーン議定書でオランダに併合された南ネーデルラント(ベルギー)は、かつては同じくスペインのハプスブルク家領であった。ここでベルギーはオランダの一部としてその支配を受けることになったが、オランダとは多くの対立点があった。- 宗教上の対立 オランダはプロテスタント(カルヴァン派)であったが、ベルギーはカトリックが優勢であった。
- 言語の違い オランダ語が公用語とされたが、ベルギーは北部のオランダ語(フランデレン)と南部のフランス語系のワロン語の地域に分かれていた(この違いは現在のベルギーでも大きな問題―ベルギーの言語戦争となっている)。
- 政治上の不利 人口ではベルギーが多いのに、議会の議席は同数とされた。
オランダ王国
1830年のベルギーの分離によって連合王国が解消されてからの国号をオランダ王国という。正式な英語表記は、Kingdom of the Netherlands 現在のオランダ領東インドの支配
このころ、オランダ領東インドでは、激しい反植民地闘争であるジャワ戦争やパドリ戦争が続いていた。その戦費に加えて生産力の高いベルギーが分離したためオランダ経済は厳しい状況に追い込まれた。そこで1830年から採用されたのがジャワ島における政府栽培制度であった。これはジャワ島の農民に対してコーヒー・サトウキビなどの商品作物の栽培を安価な賃金で栽培させ、その生産物を植民地政庁が独占して海外市場に出して利益を得て、本国の収入にするもので、現地の農民に対する収奪が激しくなった。産業革命期
1848年のフランスやドイツの革命運動に刺激されて、王政に対する反発が強まっって責任内閣制を確立させたが、立憲王政が倒れることはなかった。なお、1867年には同君連合の関係にあったルクセンブルク大公国が独立した。1860~70年代に産業革命を達成し、工業化と資本主義化を進め、海外植民地としてオランダ領東インドを支配し、その独立運動を厳しく抑圧し続けた。オランダ(3) 第二次世界大戦とオランダ
20世紀の二度の世界大戦では中立を守ったが、1940年5月にドイツ軍が侵攻し、占領支配され、45年に独立を回復。オランダ領東インドは日本軍に占領され、それを機会に独立運動が激化した。
ナチス=ドイツの侵攻
フランスとドイツという二大強国にはさまれているため、帝国主義時代には厳しい状況に置かれた。第一次世界大戦では中立を守り直接的な被害を免れたが、第二次世界大戦でも国王(ウィルヘルミナ女王)が厳正中立を守ることを宣言にもかかわらず、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻、国王と政府はロンドンに亡命し国民に抵抗を呼びかけた。国内はドイツと親ナチス勢力(オランダ人ファシスト)によって支配された。この間、ドイツに対する抵抗運動やユダヤ人に多くの犠牲者が出た。ドイツは占領下のオランダ人を強制労働に動員した。ユダヤ人は占領期の3年間で約10万人6千人が強制収容所に送られ、殺害された。この戦争でオランダはユダヤ人もふくめて20万人以上の犠牲を出し、ドイツ軍によって堤防が破壊されたため、オランダの干拓地の37万5千ヘクタールが水没した。Episode 老女王のレジスタンス
迫り来るナチス=ドイツの脅威に対し、オランダのウィルヘルミナ女王(在位1890~1948)は、1939年に演説して、厳正中立を守ることを宣言した。しかし翌40年5月10日、ドイツ軍は宣戦布告なしにオランダ、ベルギーに侵攻した。12日にドイツ軍がハーグに迫ったため、翌13日にかけて女王一家と全閣僚はイギリスに避難し、オランダ軍総司令官に全権を委ねた。14日午後、ロッテルダムが空爆されて壊滅的な打撃を受けると、軍司令官はその夜、降伏した。しかし女王はドイツ軍に抵抗する意思を表明し、ロンドンからのラジオ放送で国民に抵抗運動―レジスタンス―を続けるよう訴えた。ロンドンに亡命したデ=ヘール首相はドイツとの和平に傾いたことから女王と対立して、9月には辞任した。<森田安一編『スイス・ベネルクス史』新版世界各国史14 1998 山川出版社 p.329>ナチ侵略に対して抵抗した女王の姿勢が国民の信頼を受け、第二次世界大戦後もオランダで君主政が続いた一因である、という指摘もある。もし女王がナチスに屈服していたら、オランダの王政もナチス崩壊とともに終わっていたであろう。<浜林正夫他編『世界の君主政』1990 大月書店 p.197>
日本軍のオランダ領東インド侵攻
またアジアでは、南進策をとる日本が東南アジアに侵出、スマトラ島・ジャワ島など、豊富な石油資源を狙う姿勢を強くしてきた。1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃、同日マレー半島にも上陸すると、アメリカ・イギリスとともにオランダも日本に宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。ただし、この時本国はドイツ軍に占領され、政府もロンドンに亡命していたので、宣戦布告を判断したのはオランダ領東インドの東インド政庁であった。後に亡命政府が追認したが、オランダ政府がこの戦争で宣戦布告をしたのは唯一日本に対してだけであった。日本軍のインドネシア侵攻(オランダ領東インドへの侵攻)は1942年1月から始まり、オランダ東インド軍が抵抗したが次々と島嶼部を失い、スマトラ島に次いでジャワ島にも上陸を許し、ついに3月9日、オランダ東インド軍は降伏した。このとき、多くのオランダ人が捕虜収容所に送られ、犠牲になった者も多く、捕虜虐待などの行為に対する反日感情はオランダ市民の中に根強いものがあることを忘れてはならない。また長くインドネシアを支配し続けたオランダ植民地軍が、あっけなく敗れたことに衝撃を受けたインドネシアの民衆は、当初日本軍を解放者として迎えたが、まもなく厳しい軍政による統治を受けたことで民族運動も活気づいた。
「饑餓の冬」と解放
1944年6月、連合国軍はノルマンディー上陸作戦を開始、9月12日にオランダに入ってドイツ軍を徐々に追い詰めていったが、残存するドイツ軍の抵抗力を奪うため、石炭、ガス、電気の供給を止めた。ドイツ軍も食糧供給を妨害したため、その年の冬には2万2千人が飢えのために死に、「饑餓の冬」と言われた。しかし、ついに1945年5月5日、ドイツ軍は降伏し、オランダは解放された。オランダ(4) 戦後のオランダ ヨーロッパ統合の中心に
第二次世界大戦後のオランダは、戦争の荒廃と植民地インドネシアの放棄という痛手から経済を復興させ、同時に中立から西側世界の一員へと姿勢を転換し、さらにヨーロッパ統合の中核的存在となった。
オランダの三色旗 現在のオランダ国旗は上部が赤だが、かつてのオランダ国旗は上部がオレンジ色だった。オレンジ色の方はオラニエ家のシンボルであったが、1795年には赤色に変更された。現在のロシア国旗は、オランダの三色旗の配色を変え、上から白、青、赤としたものである。<辻原康夫『国旗の世界史』河出書房新社 p.43>
インドネシアの独立
1945年8月15日、日本の敗北により、1945年8月17日にスカルノらがインドネシア共和国の独立宣言を行った。しかし、植民地支配を復活させようとしたオランダはそれを認めず、「スカルノを対手とせず」という姿勢を採り、親オランダの勢力と結んで実質的な支配を続けようとした。1947年7月21日、オランダは「警察行動」という名目で軍隊を派遣したがインドネシア民衆の抵抗が強く、インドネシア独立戦争は激しく展開され、オランダは一時はスカルノらを捕らえ、ジャワ島とスマトラ島の半分を占領したが、その侵略行為は発足したばかりの国際連合で厳しく非難されることになった。国連の非難決議によってオランダは和平交渉に応じ、1949年11月2日にハーグ協定でいったんインドネシア連邦共和国という形で独立を承認した。これによって、17世紀以来のオランダ領東インドは終わりを告げた。
インドネシア連邦共和国は、スカルノらが独立宣言したジャワ島とスマトラ島の一部のインドネシア共和国と、オランダの傀儡政権が残る周辺の共和国の合計16ヵ国の連合国家という形態をとり、オランダがなおも影響力を残そうとしたものであったが、翌1950年にはすべてがインドネシア共和国への合一を望み、一体化された。
西イリアン問題 ただし、オランダは1828年に植民地としていた西イリアン(ニューギニア島西半分)はオランダ領として残されハーグ協定ではその後の協議に委ねられることになっていた。独立後のインドネシアで独裁的な権力集中をめざしたスカルノは、西イリアンの解放を掲げ国連に提訴、西イリアン問題が国際問題化した。オランダは西イリアンを国連の信託統治とすることを提案したが、スカルノはそれを拒否、1961年、武力解放を宣言し、小規模な衝突が起こった。スカルノはアメリカの調停も拒否したが、1962年8月に協定が成立、翌年にインドネシアの施政権が認められ、オランダが蜂起することを受け入れた。
多極共存型社会へ
植民地の喪失という事態に直面して生まれた新たな理念が「多極共存型社会」という考え方であり、オランダの戦後経済の復興の成功はこのそれが有効性を発揮したためと言うことができる。「多極共存型社会」とは、経営者と労働者の代表からなる社会経済協議会が政府の諮問機関として設けられ、この機関の労使協議に基づいた勧告を政府の政策に反映させるというやり方であり、それによって60年代から1973年(石油ショック)までの「オランダ経済の驚異」といわれる経済成長を遂げた。また、1959年に北部のスロフテレンで豊富な天然ガス田が発見されたことも追い風となった。中立からの転換
戦後のオランダのもう一面での大きな方向転換は、中立政策を放棄したことである。東西冷戦が深刻になるなかで、1948年のイギリス・フランス・ベルギー・ルクセンブルグとのブリュッセル条約、54年の西ヨーロッパ連合の結成へと明確に西ヨーロッパと協力関係を結んでいった。49年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、共産陣営との対決する軍事同盟の一員となった。ヨーロッパ統合
並行してヨーロッパの統合にも積極的に推進し、1948年のベネルクス関税同盟結成に始まり、51年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体への加盟、57年のヨーロッパ原子力共同体とヨーロッパ経済共同体の結成を勧めた。その流れは、1967年のヨーロッパ共同体を経て、1992年のオランダのマーストリヒトで採択されたマーストリヒト条約によるヨーロッパ連合の発足へとつながっていく。1970~80年代にはヨーロッパ統合の進展により、新たなボーダーレス社会を生み出し、オランダでも従来の「多極共存型社会」は行き詰まりを見せている。政治情勢では複数の政党が選挙ごとに順位が変わり、常に連立政権という形態となっている。政治的不安定にかかわらず、高度な社会保障制度は維持されているが、多の先進国と同様、財政的には問題を抱えている。2005年には国民投票で欧州憲法への批准が否決され、肥大化したヨーロッパ連合への不信も露わになってきている。<以上、森田安一編『スイス・ベネルクス史』1998 新版世界各国史 山川出版社 などを参考にまとめた。>