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ニュルンベルク

ドイツの都市で内陸交通路の要地。ナチス党大会の開催地とされ、第二次世界大戦後の国際裁判が開かれた。

ニュルンベルク GoogleMap

ドイツ内陸部のバイエルンの都市。ベルリンとミュンヘンを結ぶ内陸交通路の要衝にあり、1219年に帝国都市となって自治権を得る。中世後期に南ドイツの商業の中心地として栄え、「ニュルンベルク市民なきところ大市なし」と言われた。
 1835年12月7日には最初のドイツの鉄道が、ニュルンベルクとフュルトの約6km間に敷設され、機関車(まだイギリス製だった)が走った。

ヴァーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』

 ドイツのロマン派音楽を代表するリヒャルト=ヴァーグナーはドイツの三月革命に参加する前から抱いていた腹案を、1860年代に楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』として発表した(初演は1868年)。これはニュルンベルクに伝わる伝統的な歌合戦を舞台に繰り広げられる喜劇(と言ってもイタリア歌劇のようなドタバタ劇ではない)であり、音楽職人の親方ハンス=ザックスや騎士ヴァルター、町の役人ベックメッサーなどが恋のさや当てをしながら歌を競う。ヴァーグナーはそこに芸術における伝統と革新の対立がドイツ芸術の勝利となるテーマを忍ばせ、結論的に「ドイツ人精神」を高揚するしている。そのテーマは、1848年革命の混乱を乗り越え、ビスマルクのもとで民族を統一しヨーロッパの強国にならんとしていたドイツ人に強く支持された。 → You Tube 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第一幕への前奏曲 カラヤン指揮 ベルリン・フィル 1957 NHKホール

ドイツ最初の鉄道

 1835年12月7日ドイツで初めての鉄道が、ニュルンベルクとその郊外のフュルトを結んで運行された。これは「ルートヴィヒ鉄道」といわれ、区間はわずか6キロをイギリス製機関車が10分で結んだ。この日は現在もドイツの鉄道記念日とされている。
 なぜ内陸都市のニュルンベルクでドイツ最初の鉄道運行が始まったか。その背景には、19世紀諸島のナポレオンによるドイツ支配があった。ニュルンベルクは名目上は神聖ローマ帝国の帝国都市として自治の伝統を誇っていたが、ナポレオンがドイツを軍事的に支配下においた1806年、バイエルンに強制的に編入された。また同年にナポレオンが発令した大陸封鎖令は、近世以来、海外交易の一翼として繁栄してきた商業都市ニュルンベルクに打撃を与えた。占領下ドイツに、侵略者フランスに抵抗する大学生を中心とした愛国的な運動が高まるとともに、ニュルンベルクの経済にとって、新たな商圏を探さなければならなくなった。その悩みはナポレオン没落後のウィーン体制の時代にも変わらなかった。
 ナポレオンと戦い、戦場から帰ってきた若者たちは、39の地方君主国家(領邦)に分かれたドイツに飽き足らず、立憲主義・自由主義と統一ドイツ国家を実現するという理想を掲げて旧体制と戦う「政治の季節」を迎えていた。ニュルンベルクをバイエルン地方の一地方都市にとどまらない、統一されたドイツと結びついた都市にしたい、というのが鉄道事業に乗り出した実業家たちの思いだった。ルートヴィヒ鉄道を創設したプラトナーとシャーラーという二人は、プラトナーがインディゴやタバコなどの植民地物産を、シャーラーはホップをあつかうニュルンベルクの経済界の指導者だった。<鴋澤(ばんざわ)歩『鉄道のドイツ史』2020 中公新書 p.25-30>

ナチスの党大会開催

 ニュルンベルクは「ドイツ人精神」の象徴的な場所と考えられるようになり、ヒトラーの率いる国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は、政権を取った1933年から、このニュルンベルクで党大会を開催するようになった。それ以前はミュンヘンやワイマールなどで場所を変えて開催されていたが、1933年の第5回大会からはニュルンベルクでの開催が恒例となった。その党大会は荘厳で偉大な儀式として演出され、開会式では必ずヴァーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』序曲が演奏された。こうしてニュルンベルクはナチスにとっての聖地となった。1935年にはこの地でユダヤ人絶滅を定めたニュルンベルク法が制定された。

国際軍事裁判の開催

 第二次世界大戦でのナチス=ドイツ敗北後に、その戦争犯罪をさばく国際裁判としてニュルンベルク国際軍事裁判がこの地で開催されたのは、ナチスの聖地と思われてたこの都市を連合国があえて選んだからであった。
 ニュルンベルクには、国際軍事裁判が行われた建物が現在も残され地方裁判所として使用されているという。法廷となった部屋も保存され、その上の階は記念館となっている。
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