マインツ
ドイツの都市で内陸交通路の要地。7選帝侯の一つ、マインツ大司教座がおかれた。1440年頃、グーテンベルクが活版印刷をこの地で始めた。
マインツ GoogleMap
ローマの城塞都市
マインツもローマ帝国がライン川沿いに建設した城塞都市の一つであった。紀元前38年、将軍アグリッパがローマ軍の陣営を置いたのが始まりで、ガリアの東の前線であり、ライン川の対岸がゲルマン人の居住地だった。属州ガリアの要衝であり、そこから南のアルプスを越えてローマに至る街道が伸びていた。しかし4世紀末、ローマ軍はマインツから引き揚げ、ゲルマン人、続いて粉塵がマインツを攻略し、さらに9世紀末にはライン川を遡ってノルマン人も侵攻してきた。このように軍事的な要衝であったことから、その後も17世紀の三〇年戦争やフランスのルイ14世のラインラント侵攻(ファルツ戦争)でも戦場となった。マインツ大司教
ラインラントにはローマ時代にキリスト教が伝えられ、フランク王国時代に定着した。フランク王国の首都の一つだったマインツには4世紀に司教区が置かれた。8世紀の後半、マインツ初代の大司教となったボニファティウスは、生涯をゲルマニアでの布教にい務め、聖人とされた。マインツ大司教区はアルプス以北最大の権威を持ち、ボニファティウスの座る席はヴァティカン以外には許されない“聖座”の称号を持った。10世紀には「ドイツ人の神聖ローマ帝国」皇帝となったオットー1世は、マインツ大司教の地位を尊重し、居城はアーヘンであったがマインツで政務を執ることの方が多かった。神聖ローマ皇帝選挙権を有する七人の選帝侯のうちのマインツ、ケルン、トリアーの三人の大司教とファルツ選帝侯はいずれもラインラントの大領主でもあり、政治、経済、文化に強い影響力を持っていた。なかでもマインツ大司教は同時に「帝国書記翰長」として帝国統治の実務を統括するという大権力を握ることになった。この「帝国関係事務」の中には、皇帝選挙準備も含まれているので、皇帝選挙は実際にはマインツ大司教が取り仕切ったと言えるので、当時の人々はマインツ大司教を指して“帝国第一の人物”と呼び、マインツを“事実上の帝国首都”と見なした。こうしてマインツは12~14世紀には“黄金のマインツ”といわれる全盛期を迎えた。<笹本駿二『ライン河物語』1974 岩波新書 p.44-51,91-92>
ライン都市同盟
マインツ、ケルン、トリーアの大司教座都市は、ライン川中流域の経済都市としても、13世紀頃から発展した。このドイツを貫くライン川は交通、運搬の大幹線となって、他にもコブレンツ、ヴォルムスなど多くの都市が生まれた。これらの都市の中から、1254年には、マインツ、ヴォルムスを中心とした70ほどの町を結ぶライン都市同盟が結成された。ケルンやコブレンツはそれとは別にハンザ同盟に参加した。*注意 ライン都市同盟は、1806年7月のライン同盟(ナポレオンが結成したドイツ連邦)とは違うので注意しよう。
活版印刷の始まりと分散
15世紀のマインツで活躍した人物に、活版印刷術を完成させたグーテンベルクがいた。1440年頃、活版印刷を完成させた彼がマインツに印刷所を設けたことによって、マインツは印刷業が最初に興った町として栄えた。しかし、1462年10月27日の夜、教皇によって解任されたマインツの大司教と、その後継者アドルフ・フォン・ナッサウとのあいだの紛争が起こり、ナッサウの軍隊がマインツの町に侵入、マインツには火災、掠奪、放逐という混乱に陥った。そのため、マインツの印刷業も打撃を受け、この事件は活版印刷という新しい技術が他の都市に分散していく原因となった。マインツには現在、グーテンベルク博物館があり、1455年ごろ出版した『グーテンベルク聖書』が保管されている。