ニュルンベルク裁判
ナチス=ドイツの戦争責任と犯罪を断罪するための国際軍事裁判。ナチス指導者12名が有罪、死刑となった。
ニュルンベルクは、1933年以来、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が毎年の大会を開催した場所であり、1935年にはナチス=ドイツがユダヤ人絶滅を宣言したニュルンベルク法の制定されたところであった。連合国がこの地を選んだのはナチスの過去を断罪する強い決意表明であった。国際軍事裁判所の裁判長はイギリスのローレンス。1945年11月20日から7ヶ月間に合計403回の審理が重ねられ、46年10月1日に判決が言い渡された。死刑となった12名は次のような人々である。
→ 極東国際軍事裁判所
裁判が開かれた建物には現在もニュルンベルクの地方裁判所などが入り、公判が開かれた600号法廷はその後の修復出やゝ姿を変えたが、現在も現役の法廷として使われている。
記念館は600号法廷の上の階に建設され、実際に使われた被告席や当時の記録映像などを展示しながら裁判の内容を紹介。東京裁判についての展示もある。「ニュルンベルクから(国際刑事裁判所のある)ハーグへ」と題し、ニュルンベルク裁判が旧ユーゴ国際戦犯法廷や国際刑事裁判など後世に与えた影響も伝える。600号法廷も裁判に使われていないときは見学できる。<朝日新聞 2010年11月22日記事>
処刑されたナチス指導者
ゲーリング(元帥、政治警察組織者)、カイテル(国防軍長官)、ヨードル(国防軍参謀長)、リッベントロップ(外務大臣)、カルテンブルンナー(国家保安本部長官)、ローゼンベルク(占領東方地区担当大臣)、フリック(内務大臣)、フランク(ポーランド総督)、シュトライヒャー(教育大臣。ユダヤ人殺害計画立案)、ザウケル(労働大臣、ユダヤ人強制連行)、インクヴァルト(オーストリアとオランダ総督、ユダヤ人強制連行)。このほか、ボルマン(ナチ党官房長)は逃亡中とみなされ死刑が宣告された(後に死体が発見され、自殺していたことが判明)。なお、ルドルフ=ヘス(前副総裁)は終身禁固となった。また逮捕されたナチ指導者の中には裁判前に自殺した(ヒムラーなど)や、ボルマン(注)のように逃亡したものもいた。<野村二郎『ナチス裁判』講談社現代新書 1993> (注)ボルマンは後に自殺したことが判明した。→ 極東国際軍事裁判所
News ナチス裁いた法廷、記念館に
第二次世界大戦後に連合国がドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判が開かれた裁判所に、2010年11月21日、記念館が開館した。式典にはベスターベレ外相やロシアのラブロフ外相らが出席。ベスターベレ外相は「過去を知らずして、過去から未来のために学ぶことはできない」と述べ、世界史上での重要な役割を果たした裁判をその現場で後世に伝えていく意義を強調する。裁判が開かれた建物には現在もニュルンベルクの地方裁判所などが入り、公判が開かれた600号法廷はその後の修復出やゝ姿を変えたが、現在も現役の法廷として使われている。
記念館は600号法廷の上の階に建設され、実際に使われた被告席や当時の記録映像などを展示しながら裁判の内容を紹介。東京裁判についての展示もある。「ニュルンベルクから(国際刑事裁判所のある)ハーグへ」と題し、ニュルンベルク裁判が旧ユーゴ国際戦犯法廷や国際刑事裁判など後世に与えた影響も伝える。600号法廷も裁判に使われていないときは見学できる。<朝日新聞 2010年11月22日記事>