エドワード黒太子
百年戦争当時のイギリスのエドワード3世の皇太子。ポワティエの戦いの勝利などで武勲を詠われた。
エドワード黒太子
城戸毅『百年戦争』刀水書房 p.72
ポワティエの戦いでのイギリス軍の勝利により、1360年、一端講和が成立、アキテーヌ地方の支配権を確保したエドワード3世は、1362年にエドワード黒太子にその地の知行権を与えて統治させた。黒太子はボルドーに宮廷をおいてその統治にあたったが、カスティーリャ王国の内紛に介入しようとして出兵、その戦費を得るために知行地の農民に炉一つあたり10スーの炉税を納めることを要求したため、反発を受け、それがきっかけとなって和平はくずれ、戦闘が再開された。黒太子はスペイン遠征中に病に罹り、父より先の1376年に死去した。
Episode 実は評判の悪かった黒太子
(引用)いったい、この黒太子という人物は、しばしば中世騎士道を代表する人物のひとりのように語られており、また確かに軍人・戦術家としては当代随一の才能の持ち主であり、さらに貴族社会の儀礼という点から見ても、その行動は非のうちどころのない完璧さをもっていたようだが、同時にその人柄においては、父親譲りの派手好みの浪費家であり、また政治感覚や政治的判断においては、甚だしく未熟で、貴族社会に属さぬ一般庶民に対しては冷酷無残、その領民支配は、イングランドでもアキテーヌでも、過酷な収奪によって特徴づけられるのである。彼がボルドーに宮廷を開くと、その派手な性格のために、初めはアキテーヌの貴族や庶民あいだいに人気を博したものの、まもなく彼の性格のマイナス面が表に出て、次第に彼の統治は悪評をこうむるようになった。・・・<城戸毅『百年戦争』2010 刀水歴史全書 刀水書房 p.72>