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アキテーヌ地方/ギエンヌ地方

フランス南西部のボルドーを中心とした葡萄酒の産地。ギエンヌ(ギュイエンヌ)地方ともいう。プランタジネット朝イギリス王に継承されており、百年戦争の係争地となった。

 古来、アキテーヌ(ラテン名はアキタニア)という。ギエンヌ(ギュイエンヌとも表記)ともいう。中心地はボルドーで、大西洋に面し、ロワール川からピレネー山脈にかけての一帯。ローマ帝国時代には、ガリア=アキタニアという属州がおかれていた。5世紀にはイベリア半島に建国されたゲルマン人の西ゴート王国の支配を受けた。

フランク王国とイスラームの侵攻

 西ゴート王国がイスラーム勢力の進行によって滅びたのち、北ガリアのフランク人を統一したフランク王国メロヴィング朝クローヴィスの力が及び、507年に併合された。その後、メロヴィング朝が内紛で分裂すると、アキテーヌ公が自立し、分離したが、7世紀にはイスラーム教国のウマイヤ朝の勢力がイベリア半島からピレネー山脈を越えて侵入してきた。アキテーヌ公ユードはやむなくフランク王国の宮宰カール=マルテルに支援を仰ぎ、その力によってイスラーム勢力を撃退されたことによって、カール=マルテルに従属することとなった。そして8世紀末、カール=マルテルの孫のカール大帝の時にフランク王国領として確定した。

イギリス王領となる

 アキテーヌ(ギエンヌ)は古来ブドウ酒の産地として知られ、ボルドーからイギリスに大量に輸送されていた。この地はカペー朝フランス王国の中の最大の封建諸侯の一人であるアキテーヌ公の所領であったが、1152年、アキテーヌ公領の相続人であるエレオノール(アリエノール)がイギリス(厳密にはイングランド王国)のプランタジネット朝初代、ヘンリ2世と結婚したことによって、イギリス国王の領地となった。そのため、イングランド国王はアキテーヌ(ギエンヌ)の領主としてはフランス国王の臣下であるというい関係にあった。イングランド国王ヘンリ2世はアンジュー伯であったので、ここにドーヴァー海峡をはさんで北はイングランド、南はアキテーヌ(ギエンヌ)に及ぶ広大な中世国家が生まれた。これをアンジュー帝国とも言っている。
注意 アキテーヌかギエンヌか 世界史の教科書にはもっぱらギエンヌ(ギュイエンヌ)として説明されており、用語集でもギエンヌしか掲載されていない。しかし、ギエンヌは一般の歴史書には、アキテーヌとして出てくることが多い。高校生の学習ではギエンヌとして覚えておいて全く問題ないが、アキテーヌという地名も目にすることがあるので注意を要する。両者の関係を簡潔に説明しているのが次の文である。
(引用)イングランド王の所領で会った西南部フランスはアキテーヌ、ギエンヌ、ガスコーニュの三つの名称で呼ばれるが、それらの各々の範囲を正確に定義することは不可能に近く、厳密に使い分けられている訳ではない。まずアキテーヌは元来ローマ時代のアクィタニアに由来する語で、北はポワトゥ、東はオーヴェルニュまでの非常に広い範囲を指し、もっぱらイギリス側が用いた語である。これに対してギエンヌはもっぱらフランス側が用いた語で、元来はアキテーヌと同義だったが、13世紀にはドルトーニュ河やギャロンヌ河の流域を中心にポワトゥを除くアキテーヌの北西部を指すようになった。またガスコーニュはビスケー湾岸のアキテーヌ南西部を指し、その北部はギエンヌと重なる。<城戸毅『百年戦争』2010 刀水書房 p.26>
 これとは別にアキテーヌが歴史的には正しく、ギエンヌはその俗称、という説明もある。ややこしいのは、現在のフランスの地図を見ると、ギエンヌは見当たらず、地域圏(州にあたる)のひとつにアキテーヌがある。それはボルドーを州都とするガロンヌ川一体を占めている。しかし、中世ではアキテーヌはさらに北の方も含んでいたようだ。なお、2016年10月にフランスは大規模な地方行政改革が行われ,地域圏がいくつか合併し,現在の地域圏名は「ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏」となっている(州都はボルドーのまま)。

英仏の係争地となる

 フランス国王のカペー朝フィリップ2世は、フランス国内のイギリス王領の奪回をめざし、イギリス王リチャード1世、ジョン王と争い、ノルマンディーアンジュー伯領を奪ったが、このアキテーヌ地方だけはイギリス領として残った。
 百年戦争は、イギリス領であるこの地の奪回をフランスが目指したことが開戦の要因の一つであった。イギリス王はアキテーヌ公としては、フランス王の臣下の立場となるので、封建的主従関係での臣従礼を採らなければならなかった。フランス王はイギリス王が即位する度に、アキテーヌ公として臣従礼を行うことを要求し、イギリス王もそれによって領有権が保障されるので、パリまで赴いてフランス王の前にひざまずき臣従礼を取ることに甘んじていたが、実際にはイングランド本国から海を隔てて遠いアキテーヌを維持することは困難であり、在地の領主の中にはイギリス王に反抗するものもあらわれた。
百年戦争の前哨戦 そのような中で、百年戦争以前にもその前哨戦と言える衝突がアキテーヌをめぐって起こっている。1293年、エドワード1世の時、イングランドの船隊がフランスの船隊と衝突し、ラ=ロシェル港を急襲する事件が起き、フランスのフィリップ4世はその報復としてアキテーヌ公領の没収を宣言、軍を侵攻させた。このギエンヌ戦争(ワインの産地ガスコーニュをめぐる戦争でもあったのでガスコーニュ戦争とも言う)と言われる衝突で、アキテーヌの大部分はフランス王の支配下に入った。両者の対立は1303年に修復され、エドワード1世とフィリップ4世の妹マルグリット、さらにエドワード1世の長男エドワード(後の2世)とフィリップの娘イザベルとの二重の婚姻が成立した。このエドワード2世とイザベルの間に生まれたのがエドワード3世で、彼がイザベルの息子であるところからフランス王への臣従礼を拒否し、さらにその王位継承権を主張して百年戦争が始まることとなる。
百年戦争の結果   百年戦争の長期にわたる戦闘の結果、この地は最終的にフランス領とされ、二度とイギリス領に戻ることはなかった。イギリスはそれまでこの地方の葡萄酒(ワイン)を自国産の産物として飲みほしていたが、百年戦争の結果としてこの地がフランス領となったので、それ以後は関税を払って輸入しなければならなくなり、その結果、イギリスはワイン離れが進んでビールやウィスキーを飲むようになった。

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城戸毅
『百年戦争』
2010 刀水書房