ブルゴーニュ公
フランスの東南部、かつてブルグンド王国のあった地域を治めるフランス最大の大領主。百年戦争の時代、1364年にヴァロア家のフィリップが領有、1384年に婚姻によりフランドルを併合した。ヴァロア本家(オルレアン派)と対立し、イギリスと結んだ。1477年、当主シャルルがスイス盟約者団との戦いで敗死、婚姻によりハプスブルク家マクシミリアンが継承し、以後ハプスブルク家領となる。
ブルゴーニュ地方はフランスの東南部の山間地帯で、5世紀にゲルマン民族のブルグンド王国があった地域を言う。中心都市はデイジョン。フランク王国に併合された後、ヴェルダン条約で西フランクに属し、その後フランス領として続く。その間、11世紀からはカペー家の一族が封じられてブルゴーニュ公となった。
ブルゴーニュ地方は独立傾向が強く、クリュニー修道院やシトー修道院など修道院運動の中心地でもあった。
フランドルを併合 ブルゴーニュ公フィリップ(ル=アルディ、豪胆公)はフランドル地方伯家のマルグリットと結婚した。1384年、フランドル伯が死去し、フィリップは妻マルグリットとフランドルを共有することとなり、ブルゴーニュ公はフランドル地方もあわせて領有することとなった。それをきっかけにブルゴーニュ公のネーデルラント全域を支配しようという動きが強まって、中世フランス最大の封建領主となった。
オルレアン派との抗争 1404年、フィリップの後を継いだジャン(サン=プール、無畏公)はオルレアン公ルイと対立するようになりブルゴーニュ派の頭領となってオルレアン・アルマニャック派と対立するようになった。百年戦争さなかのフランスで内紛が起こったこととなり、ブルゴーニュ派はヴァロワ朝と対立するイギリスと結ぶようになった。1419年にはジャンがアルマニャック派によって謀殺され、フィリップ(ル=ボン、善良王)が継承した。1428年、イギリスがオルレアン・アルマニャック派に推されたシャルル7世をオルレアンに包囲したときには、ブルゴーニュ公は中立策をとったが、フランス軍を率いて戦っていたジャンヌ=ダルクを捕らえてイギリスに売り渡した。しかしその後、シャルル7世のフランス軍は次第に勢力を挽回し、ついに1453年にイギリス軍に勝利したことによって、ブルゴーニュ公は次第に勢力が衰えることとなった。
ブルゴーニュ地方は独立傾向が強く、クリュニー修道院やシトー修道院など修道院運動の中心地でもあった。
百年戦争の時代
百年戦争のさなか、1356年にポワチエを戦いでヴァロワ朝フランス王ジャンが捕虜となった時、同行した末子のフィリップにブルゴーニュ公領を与えることを約束した。1364年、ジャン王の次に王位についたシャルル5世は先代の約束を履行し、フィリップにブルゴーニュを継承させ、ブルゴーニュ公とした。これがヴァロア家系ブルゴーニュ侯家の成立だった。フランドルを併合 ブルゴーニュ公フィリップ(ル=アルディ、豪胆公)はフランドル地方伯家のマルグリットと結婚した。1384年、フランドル伯が死去し、フィリップは妻マルグリットとフランドルを共有することとなり、ブルゴーニュ公はフランドル地方もあわせて領有することとなった。それをきっかけにブルゴーニュ公のネーデルラント全域を支配しようという動きが強まって、中世フランス最大の封建領主となった。
オルレアン派との抗争 1404年、フィリップの後を継いだジャン(サン=プール、無畏公)はオルレアン公ルイと対立するようになりブルゴーニュ派の頭領となってオルレアン・アルマニャック派と対立するようになった。百年戦争さなかのフランスで内紛が起こったこととなり、ブルゴーニュ派はヴァロワ朝と対立するイギリスと結ぶようになった。1419年にはジャンがアルマニャック派によって謀殺され、フィリップ(ル=ボン、善良王)が継承した。1428年、イギリスがオルレアン・アルマニャック派に推されたシャルル7世をオルレアンに包囲したときには、ブルゴーニュ公は中立策をとったが、フランス軍を率いて戦っていたジャンヌ=ダルクを捕らえてイギリスに売り渡した。しかしその後、シャルル7世のフランス軍は次第に勢力を挽回し、ついに1453年にイギリス軍に勝利したことによって、ブルゴーニュ公は次第に勢力が衰えることとなった。
ハプスブルク家領となる
百年戦争の終わった後、フィリップの次のブルゴーニュ公シャルル(ル=テメレール、突進王、勇胆王、大胆王ともいう)はフランス王国からの独立を図り、ルイ11世と戦ったが、フランス側についたスイス軍とも戦うブルゴーニュ戦争(1474~77)となり、1477年に戦死した。その結果、その娘マリーの夫ハプスブルク家のマクシミリアン1世がブルゴーニュ公領(ブルゴーニュとフランドル)の領地を継承した。こうしてハプスブルク家は、オーストリアだけでなく、西ヨーロッパの中枢部、ブルゴーニュとフランドルに勢力を拡大することとなった。参考 『中世の秋』
ヴァロワ家系ブルゴーニュ公はフィリップ(豪胆王)―ジャン(無畏王)―フィリップ(善良王)―シャルル(大胆王)とそれぞれあだ名を持つ有能な君主がつづき、百年戦争からその後の時期にかけて、フランス王国内の最大の封建領主としてパリのヴァロワ朝を脅かす存在であった。特にブルグンド王国以来の中世文化の基盤の上に成り立っていブルゴーニュ公が、ヨーロッパの先進地域であるフランドル地方を併合してからは、新旧を融合させた独自の宮廷文化を発展させ、中世ヨーロッパの文化の終わり、つまりルネサンスが始まる直前の文化が開花することとなった。20世紀のオランダの歴史家ホイジンガは、このブルゴーニュ公領を舞台として中世から近世へのヨーロッパ文化を『中世の秋』で見事に描いている。ブルゴーニュ問題
『中世の秋』の翻訳で知られる中世史家堀越孝一氏は次のような、ヴァロワ家のフィリップがブルゴーニュ侯を継承したことから「ブルゴーニュ問題」が発生した、として次のように述べている。(引用)この問題、生半可なものではなかった。つきつめればブルゴーニュ家がドイツとフランスのあいだにひとつの国家をつくれるかどうかが問われたのである。これが「ブルゴーニュ問題」である。はじめからこの目標がブルゴーニュ家の将来目標にインプットされていたといっては嘘になる。初代フィリップがたまたまフランドル伯女マルグリットと結婚したことがきっかけとなった。フランドルはイングランドから北海沿岸、ライン川下流域にかけてひろがる北西ヨーロッパ都市圏の元締め的立場にある。北西ヨーロッパ都市圏は北イタリア都市圏と相対する。その両都市圏の中間地点に位置する、こういってはなんだが、一地方政権が、一挙に大所帯をまかされたという格好であった。フランドルの商人たちがイングランドで、ドイツで、自由に活動できるよう配慮する。フランドル伯としてのブルゴーニュ侯に委託された仕事がこれであった。<堀越孝一『ブルゴーニュ家』1996 講談社現代新書 p.4-5>