印刷 | 通常画面に戻る |

ウェールズ

大ブリテン島の西部地方で、ケルト系文化を継承している地方。かつては独立した地方政権であったが、16世紀にイングランドに事実用併合され、現在はイギリスの一部となっている。1999年から独自の議会が開催されている。

 大ブリテン島の西部地方。アングロ=サクソン人の侵入以前からブリテン島に居住していたケルト人の一派ブリトゥン人住民が独自の言語と文化をもって存在していた。彼らは、5世紀ごろからアングロ=サクソン人に圧迫され、島の西部や北部に追いやられていった。そのうち島の西端に追いやられた人々は、アングロ=サクソンの言葉で「ウェアルフ」(異邦人)と呼ばれことから、「ウェールズ」の呼び名が生まれた。彼らは7~8世紀の間にアングロ=サクソンとは異なる文化圏を形成し、グウィネズなどの小部族王国に分立し、抗争を繰り返した。<君塚直隆『物語イギリスの歴史(上)』2012 中公新書 p.11>

イングランドによる征服

ヘンリ2世の宗主権 イングランドに1066年にノルマン朝が成立しても、その支配はウェールズには及んでいなかった。12世紀に入りノルマン朝が断絶したことからイングランドが内戦状態になると、ウェールズは勢力を拡張しオーウェン=グウィネッズは「ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)」と称してイングランド王国のプランタジネット朝初代のヘンリ2世と対抗した。1157年からヘンリ2世はウェールズ遠征を開始したが、ウェールズ側はゲリラ戦で戦い、8年にわたる遠征でも征服することは出来なかった。1165年以降はヘンリ2世はウェールズ諸侯に対して穏健な態度で接するようになり、遠征の目標を海峡を越えたアイルランドに向けるようになり、1171年には自らアイルランドに上陸した。このような征服活動の結果、ウェールズはイングランド王の宗主権を認めるようになった。
エドワード1世の侵入  イングランド王国のプランタジネット朝エドワード1世は、大ブリテン島の統一支配をねらって、1282年にウェールズに侵入したが、激しい抵抗を受け、結局は長男をプリンス・オブ・ウェールズに任命することを認めさせた。これ以後、イギリスの皇太子はプリンス・オブ・ウェールズと呼ばれるようになる。ついで1536年ヘンリ8世の時にイングランド王国に併合されてしまった。

ウェールズの自治拡大

 ウェールズはイングランドに併合され、さらにスコットランド、北アイルランドとともに現在の「大ブリテン・北アイルランド連合王国」(UK)を構成する一地方となった(1921年)。ウェールズは政治、経済ではイングランドとの一体化が進んだが、伝統的にラグビー、サッカーなどスポーツの世界では現在もイングランド、スコットランドとは別個なチームを編成して国際大会に臨んでいる。
 現在も一定の独自のケルト的な文化の伝統を保っているが、東西冷戦終了後の世界的な分離独立の動きはウェールズにも及んだ。スコットランドでの独立の動き、北アイルランドでのアイルランドへの併合要求の強まりなどの影響を受け、1990年代にイギリス政府のブレア政権は地方への権限移譲の政策を打ち出し、1997年にスコットランド、ウェールズで独自議会開設の是非を問う住民投票が行われ、それぞれ住民の意思で独自議会開設が決まった。ウェールズは辛勝であったが賛成が僅かに上まわり、1999年に独自のウェールズ国民議会が設置されることとなった。