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漢城/ソウル

朝鮮王朝の都。漢江下流の右岸に建設され、漢江河口には江華島、西に済物浦(後の仁川)の港がある。朝鮮王朝の半島統治、経済・文化の中心地として繁栄、日本植民地時代は京城といわれ、現在は韓国の首都ソウルとしてアジア有数の都市となっている。

現在のソウル GoogleMap

朝鮮王朝(李朝)の都(正式には1393年から)。李成桂は、風水説にのっとってこの地を都に選んだという。都としては漢城府というが、一般には漢陽と言われることが多かった。その後も朝鮮の都として発展、現在のソウルに至っている。なお、ソウルに「京城」の字をあててはいけない。京城とは1910年に日本が朝鮮を植民地にしたときに漢城を改めたもので、植民地時代の地名であるからである。
 第二次世界大戦後は大韓民国の首都 ソウル Seoul となった。ソウルとは朝鮮語で首都の意味である。朝鮮王朝時代の景福宮を中心に市街地が拡張され、現在は漢江の左岸にも市街地がひろがっている。人口は1980年代には920万人であったが、90年代に1000万を突破、現在(2020年)には2596万人の巨大都市に急成長、23区からなる特別市とされている。
 ソウルの西方近郊に仁川国際空港(仁川はかつては済物浦と言われた漢城の外港)があり、韓国への玄関口であると共に、アジアのハブ空港として発展している。

19世紀末の漢城

 1886年までにヨーロッパ諸国に対しても朝鮮の開国が行われた結果、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどとの外交が開始され、外国人が居住するようになって、漢城の様子も世界に知られるようになった。一足先に朝鮮との外交関係を持つようになった日本も、漢城に進出して政治的・経済的な関係を深めていった。そのような19世紀の末、日清戦争の前後に漢城(ソウル)をおとずれたイギリス人旅行家イザベラ・バードの旅行記『朝鮮紀行』に詳しい報告がある。

イザベラ・バード
/時岡敬子訳
『朝鮮紀行』
1998 講談社学術文庫

(引用)わたしは昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、ことばにならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さとという点ではほかに比類のない中世風の行列、人で込んだ路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押しよせる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みを知っている。が、人ははじめからそのように「呑みこめる」ものではない。一年かけてつきあったのち、わたしはこの都を評価するにいたった。すなわち、推定人口二五万のこの都市が世界有数の首都に値すること、これほど周囲の美しさに恵まれた首都はまれなことを充分に悟ったのである。標高120フィート、北緯37度34分、東経127度6分のソウル盆地を取り囲む山々は険しく、峰がくっきりとしているので雄大な印象をあたえる。が、最も高い三角山でも標高2627フィートしかないのであるから、城内でトラやヒョウが撃てると自慢できる首都はたしかにソウルをおいてはめったにない!……ややもすればめぐっている山腹なみに堅牢に見えるこの城壁は、高さが25フィートから40フィート、周囲が14マイルあり、全長にわたって銃眼が備わっている。八つの通路がうがたれ、石積みの頑丈なアーチやトンネルの上には一重、二重または三重の反り返ったかわら屋根の高楼が建っている。(下略)<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.55-61>
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