朝鮮の開国
鎖国政策を採っていた朝鮮王朝は、1876年の日朝修好条規で日本との間で開国したが、清を宗主国とする関係は残っていた。欧米との交渉は遅れ、ようやく1882年のアメリカを初めとして86年までに英仏など主要国に対しても開国した。
朝鮮王朝(李朝)は1637年以来清朝より朝鮮国王として封ぜられ、清を宗主国として臣下の例をとっていた。日本(江戸幕府)とは1607年に国交を回復し、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使を江戸に送ることを続けていた。ただし幕府の使節が都の漢城にはいることは許さなかった。それも1811年以後は両国の財政難から行われなくなっていた。その他の国に対しては小中華思想の影響もあって鎖国政策をとっていた。
丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。
1875年8月、日本の軍艦雲揚は江華島水域に侵入して測量を強行したのに対して朝鮮側が発砲し、江華島事件が起こると、日本側はその責任を追及して交渉に持ち込み、翌1876年2月に日朝修好条規(江華条約)の締結に至った。ここでは第一項に「朝鮮は自主の邦」と明記したが、日本の治外法権を認めること、関税自主権がない(関税に関しては無規定だった)などの点で日本がかつてアメリカ・イギリスなどと締結した不平等条約と同様であった。この不平等(片務的)な規定の下で朝鮮は開国することとなり、同年の釜山に続いて1880年に元山、83年に仁川の三港が開港することとなった。
この段階で朝鮮が日本の開国要求に応じたのは、1873年に高宗の親政開始とともに対外強硬派の大院君が退き、政権が閔妃とその一派に代わっていたことも背景にあった。まだ開国派が形成されたわけではないが大院君の鎖国・攘夷政策を改めようという気運は徐々に高まっていた。
つまり、この段階では日本はまだ産業革命以前なので、自前の工業製品を朝鮮に輸出することはできなかった。この段階の日本の朝鮮への進出は資本主義的な意味で市場を獲得しようとしたのではなく、アジアにおける国際的な威信を高めること(後に山県有朋らが唱える朝鮮半島生命線論につながる)が主要目的だったと考えられる。
朝鮮の開国は、幕末の日本がそうであったように、米穀などの輸出の急増によって国内の米不足、物価騰貴をもたらし、民衆生活を圧迫した。その原因を閔妃政権の開化政策にあると直感した兵士と貧民は1882年に壬午軍乱に立ち上がる。開国によって朝鮮社会の矛盾が表面化したと言うことができる。
朝鮮国内には依然として拝外思想である衛正斥邪が根強い。それが西欧諸国との開国を躊躇させる最大の理由であったが、一方の清はすでに開国をしており、むしろ李鴻章などは朝鮮に対して全面的な開国を奨めていた。その本音は、日本とロシアの朝鮮への圧力強化を牽制するには、他のアメリカやイギリスを引っ張り込んだ方がよい、という判断だったであろう。清と朝鮮の「宗主国ー属国」という関係は、近代的な主権国家間の外交関係には馴染まないが、李鴻章はそれを共存させるという虫のよいことを考えていた。
日本との間ですでに1876年の日朝修好条規で開国していたので西欧諸国への開国は「第二の開国」ともいわれるが、「朝鮮の近代世界への開国は、正式には1882年5月の朝米修好条約締結の日を以て始まった」といえる。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.57-59>
宗主国との矛盾の解消 朝鮮王朝とアメリカの開国交渉は直接交渉ではなく、清が仲介して天津で行われた。李鴻章は条約に朝鮮は中国の属国であるという条項を入れることを主張、朝鮮も賛成したが、アメリカ代表シューフェルトがそのような条項は西欧的外交の概念とは相容れないとして反対したので「属邦」という文言は条約案に明記されなかった。李鴻章の部下でフランス留学経験があり国際法に詳しい馬建忠が仲介にあたり、条約とは別に朝鮮国王がアメリカ大統領に「朝鮮は清朝の属邦であるが、内治外交は朝鮮の自主である」という内容の親書を送ることで決着した。これによって1882年に朝米修好通商条約が締結され、その後のイギリス、ドイツなどとの条約でも同様の措置が取られた。このようにして清の主導権の下で朝鮮は欧米諸国と条約を締結し、清は伝統的宗主権を保持することに成功した。<大谷正『日清戦争』2014 中公新書 p.5-6>
アメリカへの使節派遣 米朝修好通商条約は1883年1月、アメリカ上院で批准され、駐朝鮮アメリカ公使としてフートが同年5月に着任した。フートは国王にアメリカへの使節派遣を要請、それに応えて同年7月に報聘使として閔泳翊を正使、洪英植を副使、徐光範を従事官として派遣した。閔泳翊は閔妃の一族で保守派の大物だったが、洪と徐は金玉均の同志の開化派だった。遣米使節一行は上海を出港、横浜港から太平洋を横断、9月2日にサンフランシスコに到着、大陸を横断してワシントンでアーサー大統領に謁見、その後アメリカ各地を訪ね、さらにヨーロッパ諸国を歴訪して翌年5月に帰国した。彼らは朝鮮始まって以来の西洋世界を実見し、世界一周を果たしたことになる。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社 p.51>
大院君の攘夷成功
1830年代から強まった欧米列強の開国要求に対しては、朝鮮王朝は清朝を宗主国としているので独自には交渉できないという立場を取り、拒絶していた。1863年に国王高宗の父として実権を握った大院君は、衛正斥邪の思想に基づく保守的な拝外主義をもっており、鎖国政策を維持した。丙寅洋擾 1866年には大院君政権の下で大規模なキリスト教弾圧が行われ、フランス人宣教師2名が殺害されると、フランスはその謝罪と同時に開国を要求して艦隊を江華島に派遣したが、大院君政権はそれを実力で撃退した。同年には大同江に侵入したアメリカの商船を焼き払ったシャーマン号事件も起こっており、このフランスとアメリカの外圧を撃退したことを丙寅洋擾といっている。1868年にはドイツ人オッペルトとフランス人宣教師フェロンらが大院君の父の南延君の墓をあばこうとして失敗するという事件も起こった。
辛未洋擾 1871年にはアメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と開国を要求して艦隊を派遣したが、それに対しても砲撃で応えた。アメリカ兵は江華島に上陸して砲台を占領しようとしたが反撃された。この戦闘ではアメリカ軍は死者3人であったが朝鮮側は53名だった。アメリカ側の記録では戦死者、溺死者400名を数えるとしている。大変な激戦であったことは間違いなく、アメリカの指揮官ロジャース少将らはペリー提督の日本遠征のときのように戦闘にはならないと考えていたので、朝鮮側の反撃が想定以上に激しいことに驚き、占領をあきらめ、7月3日に撤退した。この戦闘は辛未洋擾といわれている。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.36-37>
大院君は丙寅洋擾、辛未洋擾と立て続けに外国勢力の侵攻を撃退したことを記念し、各地に斥和碑を建て、夷狄と和することは売国であると戒めた。しかし朝鮮をとりまく国際情勢は大きく変化しつつあった。
鎖国朝鮮をとりまく状況
フランス、アメリカの開国要求を拒否した朝鮮であったが、1860年に清との間の北京条約で沿海州を獲得したロシアは、豆満江をはさんで朝鮮と国境を接することとなり、その半島への進出も始まった。イギリスはアフガニスタンなどで厳しくロシアと対立していたので、ロシアの東アジアへの進出に神経を尖らせていた。周辺諸国ではすでに宗主国の清は1842年の南京条約で開国しており、1854年には日本が開国していた。特に日本は1868年に明治維新を迎え近代国家への転身を開始していた。なお日本と清は1871年に日清修好条規を締結し国交関係を開始していた。こうして鎖国を続ける朝鮮の国際環境は徐々に厳しくなっていた。明治政府の征韓論
そのような中でまず朝鮮に開国を迫ったのは日本だった。1868年12月、明治政府は津島藩を通して王政復古と新政府成立を通告する外交文書を朝鮮に送った。大院君政権は従来どおり応接機関である東萊府で応対したが、文書の中に天皇の「皇」や「勅」の文字があったので、これらの文字は清の皇帝が用いるもので書契の格式に違反するとして受け取りを拒否した。朝鮮が清を宗主国としているためであった。日本ではこの書契問題によって朝鮮が国書を受けとらないのは無礼である、という論調が強まった。中には木戸孝允のように武力に訴えてでも朝鮮に開国を迫るべきである、という意見も現れた。西郷隆盛は次第に士族の不満の捌け口として征韓もやむなし、と考えるようになり、いわゆる征韓論が台頭した。それに対して岩倉使節団として外国視察で世界情勢を観てきた大久保利通らは征韓は時期尚早と考え、征韓論に反対、両派の対立はやがて1877年の西南戦争へと向かうが、大久保らは征韓論そのものに反対したわけではなかった。
新国家の国際的権威を確立するためには、中国や朝鮮に対して優位な状況を作るべきであり、中国と朝鮮を弱体な国家であると一段低く見る思想は、すでに吉田松陰の思想にも見ることができ、伊藤博文や山県有朋など長州出身の明治政府の指導者の中にも色濃く流れていた。領土拡張におる国威発揚の姿勢は、早くも1874年5月の台湾出兵に現れている。
日朝修好条規の締結
日本の台湾出兵が行われた翌1875年、日本は再び国書を送り開国を求めた。その交渉では国書の文字だけでなく、交渉に当たって日本側は洋服着用を主張したのに対し朝鮮側はそれを拒否し、話がまとまらなかった。それをうけて明治政府内に武力示威行動による威嚇もやむなしという意見に傾いた。1875年8月、日本の軍艦雲揚は江華島水域に侵入して測量を強行したのに対して朝鮮側が発砲し、江華島事件が起こると、日本側はその責任を追及して交渉に持ち込み、翌1876年2月に日朝修好条規(江華条約)の締結に至った。ここでは第一項に「朝鮮は自主の邦」と明記したが、日本の治外法権を認めること、関税自主権がない(関税に関しては無規定だった)などの点で日本がかつてアメリカ・イギリスなどと締結した不平等条約と同様であった。この不平等(片務的)な規定の下で朝鮮は開国することとなり、同年の釜山に続いて1880年に元山、83年に仁川の三港が開港することとなった。
この段階で朝鮮が日本の開国要求に応じたのは、1873年に高宗の親政開始とともに対外強硬派の大院君が退き、政権が閔妃とその一派に代わっていたことも背景にあった。まだ開国派が形成されたわけではないが大院君の鎖国・攘夷政策を改めようという気運は徐々に高まっていた。
開国の影響
まず釜山が開港され、日本と朝鮮の貿易が開始されると、無関税という不平等な規定であったため、貿易は急速に拡大した。日本からはおもにイギリス製綿製品が中継輸入され、朝鮮からは米・大豆・金地金・牛皮などが輸出された。穀物の大量輸出は、開港場における穀物流通構造を造りだし、商人や地主には利潤をもたらしたが、国内における米の供給不足を引き起こし、米価を騰貴させ、都市下層民などの米を購買する民衆の生活を圧迫した。<糟谷憲一『朝鮮の近代』世界史リブレット43 山川出版社 p.31>つまり、この段階では日本はまだ産業革命以前なので、自前の工業製品を朝鮮に輸出することはできなかった。この段階の日本の朝鮮への進出は資本主義的な意味で市場を獲得しようとしたのではなく、アジアにおける国際的な威信を高めること(後に山県有朋らが唱える朝鮮半島生命線論につながる)が主要目的だったと考えられる。
朝鮮の開国は、幕末の日本がそうであったように、米穀などの輸出の急増によって国内の米不足、物価騰貴をもたらし、民衆生活を圧迫した。その原因を閔妃政権の開化政策にあると直感した兵士と貧民は1882年に壬午軍乱に立ち上がる。開国によって朝鮮社会の矛盾が表面化したと言うことができる。
清を宗主国とすることとの矛盾
開国と言ってもこれは日本とだけのことで、他の欧米諸国との間では朝鮮は開国していない。それは朝鮮は依然として清を宗主国としていたので、夷狄の諸国と条約を勝手に結ぶことはできないからである。朝鮮政府は日本との関係は江戸時代の関係の延長と理解し、それを手直ししたものと理解していた。宗主国の清に遠慮して、対等な二国間の「条約」ではなく、単なる取り決めという一段低い意味の「条規」としたのにもそのような意味がこめられているのであろう。朝鮮国内には依然として拝外思想である衛正斥邪が根強い。それが西欧諸国との開国を躊躇させる最大の理由であったが、一方の清はすでに開国をしており、むしろ李鴻章などは朝鮮に対して全面的な開国を奨めていた。その本音は、日本とロシアの朝鮮への圧力強化を牽制するには、他のアメリカやイギリスを引っ張り込んだ方がよい、という判断だったであろう。清と朝鮮の「宗主国ー属国」という関係は、近代的な主権国家間の外交関係には馴染まないが、李鴻章はそれを共存させるという虫のよいことを考えていた。
第二の開国 欧米諸国との関係
まず、清が仲介して朝鮮とアメリカの交渉が行われたが、アメリカは「宗主国ー属国」関係は否定し、朝鮮を自主独立の国とすることを主張、結局、1882年5月、日朝修好条規と同じく朝鮮は自主の国であることを明文化した上で朝鮮とアメリカの朝米修好条約が調印された。内容は日朝修好条規と同じ不平等なものであった。続いて1886年までに清・イギリス・ドイツ・イタリア・ロシア・フランスとの間で同様の条約を締結した。清との条約では朝鮮を「属邦」であると明文化し欧米との条約と矛盾していた。それはまさに、朝鮮が清を宗主国としながら他の国々とも自主の方として国交を持つという二重体制下にあるあることを示していた。またフランスとの条約の中で事実上キリスト教の布教を認める条項が書き込まれた。日本との間ですでに1876年の日朝修好条規で開国していたので西欧諸国への開国は「第二の開国」ともいわれるが、「朝鮮の近代世界への開国は、正式には1882年5月の朝米修好条約締結の日を以て始まった」といえる。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.57-59>
宗主国との矛盾の解消 朝鮮王朝とアメリカの開国交渉は直接交渉ではなく、清が仲介して天津で行われた。李鴻章は条約に朝鮮は中国の属国であるという条項を入れることを主張、朝鮮も賛成したが、アメリカ代表シューフェルトがそのような条項は西欧的外交の概念とは相容れないとして反対したので「属邦」という文言は条約案に明記されなかった。李鴻章の部下でフランス留学経験があり国際法に詳しい馬建忠が仲介にあたり、条約とは別に朝鮮国王がアメリカ大統領に「朝鮮は清朝の属邦であるが、内治外交は朝鮮の自主である」という内容の親書を送ることで決着した。これによって1882年に朝米修好通商条約が締結され、その後のイギリス、ドイツなどとの条約でも同様の措置が取られた。このようにして清の主導権の下で朝鮮は欧米諸国と条約を締結し、清は伝統的宗主権を保持することに成功した。<大谷正『日清戦争』2014 中公新書 p.5-6>
アメリカへの使節派遣 米朝修好通商条約は1883年1月、アメリカ上院で批准され、駐朝鮮アメリカ公使としてフートが同年5月に着任した。フートは国王にアメリカへの使節派遣を要請、それに応えて同年7月に報聘使として閔泳翊を正使、洪英植を副使、徐光範を従事官として派遣した。閔泳翊は閔妃の一族で保守派の大物だったが、洪と徐は金玉均の同志の開化派だった。遣米使節一行は上海を出港、横浜港から太平洋を横断、9月2日にサンフランシスコに到着、大陸を横断してワシントンでアーサー大統領に謁見、その後アメリカ各地を訪ね、さらにヨーロッパ諸国を歴訪して翌年5月に帰国した。彼らは朝鮮始まって以来の西洋世界を実見し、世界一周を果たしたことになる。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社 p.51>
遣朝鮮王朝の外交権の終わり
こうして近代朝鮮は国際社会で一個の主権国家として存在することになった。しかし在日歴史家の姜在彦の次のような一文には悲痛な響きがある。(引用)しかし何といっても朝鮮の開国、とりわけ欧米諸国に対する開国と開眼は、あまりに遅すぎた。朝鮮の外交権は、日露戦争後の1905年11月の第2次日韓協約=乙巳保護条約によって剥奪され、日本外務省に移管されてしまったが、朝鮮の欧米諸国にたいする外交活動の経験は、わずか二十余年にすぎなかったのである。<姜在彦『同上書』p.52>