印刷 | 通常画面に戻る |

李成桂/太祖

1392年、倭寇撃退に成功し、高麗に代わり朝鮮を建国した人物。20世紀初頭まで続く朝鮮王朝の初代。

 李成桂は高麗の武将であったが倭寇撃退に実績を上げて台頭し、1392年に高麗に代わって朝鮮王朝を建国し、その初代国王(太祖)となった人物。
 高麗に服属していたので、元がに滅ぼされそうになると、高麗内部でも親元派と親明派の対立が生じた。また海岸部は倭寇の侵略を受け、高麗政府にはそれを鎮圧する力がなく、人民の中に不満が高まっていた。李成桂は有力な武将であり倭寇の侵入を撃退したことで人望を集め、1388年にクーデターを起こして権力を握り、ただちに土地改革に取り組み、高麗の貴族の私有地を没収、権力を集中した上で、1392年、王位につき(太祖)、都を漢城(漢陽)に定め、国号を朝鮮とした。

Episode 李成桂の「威化島の回軍」

 1388年、高麗の政権を握っていた親元派は、倭寇の鎮圧で人望のあった李成桂に命じて国境の明の拠点を攻撃させることとした。李成桂は反対したが、やむなく出征した。鴨緑江までくると夏の増水期のため濁流が渦巻いていた。ようやく中州の威化島(ウィファド)まで渡ったが、次々と兵士が流されていくのを見て、全軍に撤退命令を出し、急きょ都(開京)にもどり、親元派政権を武力で倒し新しい王を立てた。これが李成桂の「威化島の回軍」である。<岡百合子『中・高校生のための朝鮮・韓国の歴史』平凡社ライブラリー p.124~129>

李成桂の権力とその継承

国王ではなかった李成桂 李成桂は1392年7月に高麗最後の国王恭譲王から王位を譲られたが、対外的にも国王となるためには明の承認が必要であった。まず、李成桂は「権知高麗国事」という肩書きで明に使者を送り洪武帝に国王の交代の承認を求めた。「権知高麗国事」とは、仮の高麗王という意味で、この時点ではまだ国号は高麗であった。これに対し洪武帝は、李成桂の王位は承認したが、正式な冊封は与えなかった。つまり、国内的には国王となったが、国際的には承認されなかった、ということである。このころはモンゴルはすでにモンゴル高原に後退しており、かつての高麗とのような協力関係を特に必要としなくなっていたので、李成桂の即位にさほど関心を持たなかったと思われる。
 しかし、同年の冬になって再び遣明使を派遣したところ、今度は国号を改定することを明側から提示された。李成桂は朝鮮と和寧の二案を提示したところ、朝鮮にすべきであるとの勧告があったので、それを受けて、翌1393年に国号は朝鮮に決定された。しかし、李成桂が朝鮮国王に冊封されることはなかった。明が正式に冊封し「朝鮮国王」の称号を認めたのは、永楽帝の時の1403年、第三代の太宗に対してであった。このとき、李成桂はまだ生きていたが、すでに権力の座から退いていたのだった。
権力の継承 李成桂は対外的な国王称号問題と共に国内統治の権力を誰に継承させるかという個人的苦悩もあった。李成桂には8人の息子がいたが、そのうち6人が先妻の子、2人が後妻の子だった。成桂は末子の芳磧を愛し、後継者にしようと考えていた(親は末っ子が最もかわいいというのはよくある話)。しかし臣下の多くは先妻の子で5男の芳遠が最も有能で後継者にふさわしいとみられていた。ここから権力を巡る骨肉の争いが始まるが、詳しくは韓国のKBSでドラマ化され日本でも評判になった歴史ドラマ「龍の涙」に克明に描かれている。
 結論から言うと、芳遠が巧みな権力掌握力を発揮して次々と競争相手を葬り、第三代太宗として即位する。父親の李成桂はこの経過に嫌気がさし、咸鏡道の奥地に引きこもってしまう。太宗は父に帰ってもらおうと何度も使者を出すが、李成桂は使者をことごとく殺してしまったという。ようやく太宗を許して李成桂が都漢城に帰ったのは、太宗が永楽帝から朝鮮国王に封じられた1403年だった。
 太宗は1405年には高麗以来の国家機構であった議政府の権限を大幅に縮小して新たな機構に造り替え、国王の権限の強化に成功した。「太宗・李芳遠こそ、李朝500年の基を築いた人物であったと言えよう。<宮嶋博史他『明清と李朝の時代』世界の歴史12 1998 中央公論新社 p.33-36>